Thursday, April 24, 2008

聖火大作戦

聖火が日本に来たらしい。

別にどうでもいいのですが、なにかトラブルが起こるのではないか、と皆が疑心暗鬼になっているみたいですね。

そこで、とっておきの対応策を提案したい。


:聖火ランナーのそっくりさんを50人用意する
:聖火トーチのそっくりさんを50個用意する
:同時に皆でバラバラのルートで走らせる
:本物の聖火はあたまに火を付けて運ぶ

Wednesday, April 23, 2008

アートと価格

これまでアートに関しては価格はあまり重要な市場拡大要素ではない、と言われてきました。

確かにクラシックのコンサート市場においてはあまりチケットの値段を下げても需要は拡大しないことが経験則で分かっています。

でも最近そうじゃないんじゃないか、と思い始めています。

きっかけは東京で毎年GWに行われるクラシックのお祭り、ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンの取組みです。おととしは30万人近く集めたこのイベント、半分以上がクラシック初体験だったそうなのですが、チケット価格は1500~2000円前後と、メチャクチャ安いのです。

例えば美術専門出版社のTASCHENやクラシック専門のCDレーベル等、それまで高価で当たり前だった市場に安さを売りにして参入して需要を拡大したところがありますが、同じですね。

ラ・フォル~の成功事例を見ると、価格は関係ない、というこれまでのアート界の通説が実は間違っていたのではないか、という気がします。

ミクロ経済学的に言えば、需要と供給のバランスは価格によって調整されます。価格を下げても需要が増加しないことを、需要の価格弾力性が低い、といいますが、クラシック界ではまさにそれが言われていたわけです。

ところが、どうもそうでないらしい。ここでかぎになっているのが、費用対効果の効果側の問題ではないかと思っています。価格が低くなって需要が増加するのは費用対効果が改善するからです。

クラシック界において値下げがあまり効かなかった、というのは費用対効果が既に高い人に対して、更に費用を下げる、というアプローチを取りつつ、費用対効果を認めていない人には費用をいくら下げても効果があることを訴えないと意味が無いことを示唆しています。

ラ・フォル~の成功事例は、クラシックのコンサートを一連のお祭りにすることで楽しそうな雰囲気を作り出したことで効果「感」を演出すると同時に、低価格を進めたことがポイントなのではないでしょうか。

そうすると他のオーケストラやコンサートホールはどうすればいいのか?価格を下げるのではなくて知覚価値を上げることがポイントになります。

Tuesday, April 22, 2008

ボルジア家の圧政はミケランジェロ、レオナルド・ダ・ヴィンチのルネサンスを生んだ。スイス500年の平和は何を生んだ? 鳩時計だけさ」――

映画「第三の男」より ハリー・ライムのセリフ

これになぞらえて言えばわが国ではどうなるだろう??

徳川家の圧制は北斎、広重の浮世絵を生んだ。戦後の平和が何を生んだ?「××××」だけさ!

問1 質問文の「××××」にふさわしいと思われる語句を下記の選択肢から選びなさい。
        ①キダタロー
        ②公害
        ③北斗の拳
        ④北京オリンピック

さようなら

Monday, April 21, 2008

欲望の水先案内人

Youtube見ているといろいろと欲しいCDとかDVDとかが出てきて実際に購入してしまったりするから、売上は毀損されるどころかむしろ上がっている可能性もある。

ただ、これはYoutubeの画像とか音声の質が悪いからであって、クオリティがよくなったら全て代替されちゃうから、むしろクオリティに規制をかけるほうがいいんじゃないかしら??

でもそうすると画像とか音声の質がコンテンツの質に関係ないバラエティとかお笑いの映像とかっていうのは、Youtubeで代替されちゃうのかモ。

やっぱダメか。

温泉街のジレンマ

ここ二年ほど書き溜めていた書籍の原稿を先週末に脱稿した。

最後は発散発散でまとめ切れず、いくつか面白いと思う着眼点を思いついたのに取り込めなかった。また書くのは今はうんざりだけどまた書きたくなるかも知れないので、すこしずつまたネタを仕込みたい。

こぼれちゃった思考実験の一つ。

温泉街のジレンマ

都会の人は手付かずの自然を見て心と体の疲れを癒したいと考えて温泉地や保養地などを訪れる。例えばイタリアのトスカーナなどではこの欲求はどんぴしゃで満たされるのだが、日本の田舎を訪れると街道沿いを埋め尽くす温泉宿や牧場のうら寂れた看板にゲンナリさせられることになる。

なぜこういうことが起こってしかも是正されないのか?

ここには一種のナッシュ均衡が働いている。

街道沿いに何も無かった時代に初めて掲出された看板はそれなりに効果を発揮しただろう。そして他の旅館や牧場がそれを見て同じように看板を掲出しようと判断したのもごく合理的だ。そしてそれを繰り返すうちにだんだんと街道は看板で埋め尽くされるようになる。

看板の数が増えてくるとアテンションのシェアは減るため、目立つことを狙って表現はドギツく、文字は大きくなって全ての看板が似たような表現に収斂していく。看板の数を減らそうにも個々の温泉宿や牧場にとっては看板を自分だけ下ろすメリットは無いので結局看板の数は減らない。結果として風景そのものは破壊されてしまい、全体としての集客力は大きく毀損してむしろ看板を出す前より客足は落ちてしまう。

これが温泉街のジレンマだ。

このジレンマは広告およびその手法の持っている合理性が内在させている矛盾点をあらわにしている。日本の広告も、温泉街のジレンマと同じ状況に陥っている可能性があるのではないか。

という考え方。だから何だ、というのをこの先考えます。

Monday, April 14, 2008

希少なのは消費者の時間

産業革命以来の歴史を見てみると常に世の中で希少なものを握っている人に富が集中していたことがわかる。

ボトルネックがどんどんバリューチェーンを移動していく。

蒸気機関はもともと石炭を掘り出す坑道から地下水をくみ出すための動力だった。これを紡績に使ったら今度は糸が足りなくなり、糸の生産に動力を使ったら今度は販売ネットワークが足りなくなったから蒸気機関車で国中に布を運搬するようになった。

どこかの生産量が爆発的に増えると、ネットワークの中のどこかに溢路が発生してそのボトルネックを解消した会社は人に富が入り込む。

古典派経済学では労働は過剰で資本は希少だった。だから資本化がますます富むという循環が出来たわけだがムーアの法則が成り立つ世の中では希少なのは消費者の時間ということになる。

ムーアの法則による1960年から集積回路の価格は一億分の一になった。これは、1960年当時100億円かかっていた工場が100円で出来ることになり、工場を作って労働者を集めるよりも、労働者一人ひとりに工場を作ってあげる方が、移動コストや時間コストを考えるととく、ということになる。

資本がほとんどタダ、ということになると人の時間がもっとも重要なボトルネックにある。なぜなら人の時間は一日24時間以上、絶対に増やせないからだ。こうなるとこの時間を節約してくれるプレイヤーに富が集まるということになる。

グーグルはまさにそれである。グーグルは「情報を整理する」という機能を提供しているが、本質的な価値は消費者の時間を売っている、ということなのだ。

Sunday, April 13, 2008

重要なのは情報量

苔むした地面の上を裸足で歩くととっても気持ちいい。

中学二年生の夏休み、風にゆれる大樹が奏でるサーッという葉ずれの音を聴いて、果たしてこれに勝てる音楽があるのか、と思ったことがある。

絶品の一皿は言葉を拒絶してただ一緒にそれを食している相手との表情の交歓しか受け付けない。ワインを飲んで素人が解説するとどうしてああ薄っぺらく陳腐になってしまうのか。

いずれも、鍵になっているのは圧倒的な情報量の多さなのだと思う。

人間は、情報量の多いものを気持ちいいと思うように出来ている。そして訓練を積めば積むほど、情報量の多いものしか受け付けなくなってくる。

例えば、表情に力のある人が居る。男性でも女性でも、そういう人の表情には情報量が多くて、それが魅力になっている。

一方で、近年のAV女優の記号的な美しさにはそれが無い。造形的に記号としての美しさを追求した結果出来上がった記号としての形態があるだけで、そこには情報量という地盤を持つ美が無い。非難を恐れずに言えば、最近の女性向けの雑誌の表紙を飾るモデルからも、どんどん情報量が失われている気がする。要するに、おんなじ顔に見えるようになっているんじゃないか。

先日、モディリアーニの展覧会に行って、前々から考えていたこのことを改めて再認識させられた。モディリアーニの肖像にはフォルムやディテイルのリアリティは無い。極端ななで肩の上になすびのような顔がのっていて目もガラスだまのように描かれている。だけれどもその人物がどういう境遇に居て、いま何を考えているのか、ということに対する想像力はピリピリと刺激される。AV女優や雑誌モデルにはそれが無い。

これは一時期の音楽ムーブメントからも言えると思う。TMネットワークが一番わかりやすいが、シンセを使っていても結局は残る音楽と、時代とともに消えていってしまう音楽の一番の差は情報量にあるのではないか。

クリエイションを志向するのであれば、この情報量の再獲得というのは重要なキーワードだと思う。
建築という分かりやすい秩序から森という目に見えない秩序へ。クラフトワークからローリーアンダーソンへという流れが行き着く先の情報量のエンタテインメント、という方向性。

30秒→15秒→?

30秒CMが主流だった70~80年代から、今は15秒CMが主流。

CMの枠が短くなることで単価は安くなり、相対的にロングテールな方向へクライアントベースが広がったのだが、30秒のCMが15秒になることで伝達できる情報の量や質にも変化を伴っただろう。

平たく言えば、15秒になることで情報がより表層的になった、ということになるのだろう。

ソロモンアッシュが1950年代に行った実験では、人は情報の量よりもシェアに態度を左右されるという結果が出ている。5人しか友達の居ない人の5人が自民党がいい、といった場合と、20人友達が居る人の友達の8人が自民党が言いといって、残りの12人が民主党がいい、といった場合を想定すれば皮膚感覚でわからない議論ではない。

そして情報の総量に占める広告情報のシェアが下がるのであれば、広告の態度変容させるパワーはどんどん減るのではないか、というのが二年前にThink!に掲載した論文の趣旨だが、もしそういった流れが現実化していくのであればテレビCMが15秒であり続ける理由も、あまり無いような気がする。

YouTubeを見てもらえればわかるのだが、15秒CMと30秒CMではまったく詰め込める情報量が違う。30秒というのは、作る人が作れば一種の映画になりうる、ギリギリの長さだと思う。例えば1980年代に流れたサントリーローヤルのCM。これなどは喚起力が映画並みにあるのだが、15秒でそういう、茂木健一郎さんが言うところのクオリアを生み出すことは殆ど不可能だ。

広告にクオリアを生み出す能力がそもそも必要ない、という時代。そもそも記憶が外部化して、モノを買う段階になって初めてネット上の情報を参照して態度を形成する、ということになるのであればテレビCMのような絨毯爆撃的なメディアには、態度変容よりも「告知」の役割だけを期待するようになる。そうなると15秒というのはいかにも過剰スペックである可能性が出てくる。

つまり、告知だけなら5秒で十分という考え方だ。
5秒の告知スポットで名前だけは繰り返しオンエアし、実際に購入の段階になった人に「思い出してもらう」(態度形成は狙わない)ことで、ネットでの検索活動を誘発し、後の態度形成はネット情報+店頭での比較で行ってもらう、という流れ。

いまテレビ局はスポットの落ち込みが激しくて右往左往しているので、枠を小型化することで更にロングテール側にクライアントベースを広げる、という点でもなかなか有意義な打ち手ではないでしょうか。