Monday, March 31, 2008

雑感

2008年3月31日

恐らく、多くのマスコミ関係者がなんとなく気付きながらも、認めたくないと思っている昨今判明した事実、というか現象として「シロウトが作ったものでも大衆の注目を集めうる」ということが挙げられると思う。三菱総研が先日行った調査では10代の動画視聴時間に占めるテレビ映像のシェアが60%を切ったそうだ。残りの時間はもちろんDVD等もあるがネットの動画サイトの視聴時間が大勢を占めるという。

ここ数年の間にだんだんとこういう状況になってきたので今更ながらに驚く人は居ないが、改めて考えると信じられないことが起き始めている、という気持ちを禁じえない。マスコミ関係者は自分たちが作る映像や印刷物が、どれほどまでに細部に気を配って拘って制作されているかをよく知っている分、シロウトが暇つぶし半分に作ったものが人の関心を引き付けることなんてないと思っていたし、もっと言ってしまえばあってはならない、とも思っているだろう。

ここでキーになってくるのはデバイスの進化とインターネットの普及ではないだろうか。デバイスの進化はアマチュアとプロの差異を減少させて消費者にクリエイションの楽しみを浸透させた。そしてネットは、平均点が低いコンテンツでも沢山集めて皆で人気投票やると、その中からプロ顔負けの作品が表出してくるという一種の市場原理を成立させる。

これは中長期的にコンテンツを生み出していく社会の底力にどう作用するのだろうか?中途半端で大衆ウケするようなコンテンツが、消費者サイドで作られるようになるとプロにはプロならではのものが求められるようになるのかも知れない。いずれにせよ重要なのは経済システムとして全体系を考えた場合、社会がコンテンツに払えるお金には限りがある以上、視聴するものが変われば、その分配率も変わって今まで高収益を得ていたプレイヤーに価値が分配されなくなる恐れがあるということだ。

Thursday, March 20, 2008

レオナルド・ダ・ヴィンチ ケネス

レオナルド・ダ・ヴィンチ ケネス・クラーク 法政大学出版局


3月20日読了。

一番面白かったところの抜粋。

「教えてくれ、これまでに何か一つでもやり遂げたことがあるだろうか」。この言葉はレオナルドのノートやスケッチに度々登場する。複雑な計算の合間にもふと書かれているこの言葉は、はっきりと彼の病んだ心を表している。

もともとレオナルドという人は器用貧乏だったのかもしれない。結果的には貧乏でもないし、器用という言葉にそぐわない程の傑作を残したのだが、ずっと不完全燃焼だったのだろう。

レオナルドは晩年にフランスに城を与えられ、仕事といえば領主の話し相手になることだけ、ということで無為の日々を送った。その期間、彼は油絵はおろか、スケッチや素描すら残していない。腕の麻痺が進行したという話もあるが、もともとが努力家でもなかった上、粘り強さも無かったということなのかも知れない。しかしその性癖を持ってあれだけの傑作を物にしたのだから、惜しいというかなんというか。

著者のケネス・クラークはイギリスの美学者だが文中のそこかしこにレオナルドに対する愛着が横溢していて微笑ましい。レオナルドは図形のパズルのようなものを大量にスケッチブックに残しているのだが、著者は「ああ、この無意味な時間を彼が何らかの創作に当ててくれていたら」と慨嘆の息をもらしている。むべなるかな。