Saturday, February 28, 2009

真中の真と贋物

白洲正子曰く

肥えた目は真物と贋物を見極める。
しかし真中の真は、本当に研鑽を積まないと、かえって贋物に見える。

だから贋物をつかむことを恐れていると真中の真は手に入らない。

Friday, February 27, 2009

競争やめたら学力世界一 福田誠治


1:学力は知識中心から思考力中心にシフト
現代では知識や技術は速いスピードで変化しており、知識や技能は学校を卒業してからも、一生を通じて学ばなければならないものになっている。そこで、一生をかけて学ぶための「学習力」を社会に出る前につけさせることが学校教育の目的になる。フィンランドは、この変化をうまく乗り切った

2:テストも習熟度別クラスもない
義務教育期間である16歳までは、他人と比較するためのテストがない。また、フィンランドは1985年に国を挙げて習熟度別編成授業も中止した。習熟度別編成は、できる子にさしてよい影響を与えず、できない子には何らプラスがないと判断した。しかし、これは難しい選択である。テストの点数や競争を学習動機を形成するための手段として活用できないことを意味するからである。

3:日本の学力はマスコミで騒がれるほど低くはない
OECDが実施する「生徒の学習到達度調査」(=PISA)によると、読解力以外のすべての項目で日本は上位にある。しかも、人口一億人規模で上位にあるのは日本のみである。また「国際数学・理科教育動向調査」(=TIMSS2003)によると、とりたてて日本の学力低下は見られない。この点から、マスコミで日本の「低学力化」が進んでいることを批判した人たちの判断は間違っている。そういった人たちがよく理想とする実力主義と競争社会の国、アメリカやイギリスは、日本よりずっと低学力である。

4:ゲームとしてのテストの成績がよい日本
では日本の学生が勉強を真の意味でしているのか、というと疑問もある。例えば「数学が楽しいか?」という問いに対して、国際平均の29%に対して、日本の学生は9%しかYesと答えていない。また、「希望の職業につくのに数学は必要か」という問いに対しては、国際平均の73%に対して、日本の学生は47%しかYesと答えていない。また積極性のスコアも低く、また家庭での勉強時間が短く、勉学意欲も低い。

これは逆に言えば、日本の子供たちの勉強効率が高いことを示唆している。これは日本の学校教育の成果であり、まずマスコミはこの快挙をほめたたえるべきである。もしここで日本の教育の良さを壊して、教育を競争主義の市場原理にゆだねるなら、アメリカ並みの低学力しか約束されないだろう

5:日本において学力の格差拡大が進んでいる
PISAの読解力スコアが8位から14位に低下したことを受け、マスコミは「学力低下」と大々的に報道した。では、低下の構造はどうなっているのか?結果から言うと、日本においては注意以下のレベルの学力が大幅に落ち込むことで平均レベルが下がっている。例えば、レベル1未満という「極めて低学力」とされる層は、フィンランドや韓国では1%台なのに対して、日本では7.4%も存在する。平均以下=レベル2以下の層は、フィンランド/韓国では20%であるが、日本では40%台である。つまり、日本は上位レベルの厚みは変わりないものの、レベル1未満、またはレベル1という低学力層が多い国になりつつあるのである。一方で、フィンランドは逆に、上位レベルの厚みは変わらないものの、低レベル層を底上げすることで学力世界一を達成した。

6:習熟度別編成放棄の目的の一つは「経済格差による学力格差」発生の排除
習熟度別編成によって生まれる低学力クラスが、主として低い社会・経済的背景をもつ男子生徒で構成されていた。習熟度別編成の廃止は、ある種の社会問題への対処であり「平等化」がもっとも大きな理由であった。

7:社会構成主義的な学習概念が、好成績の一因
構成主義とは、知識には何らかの目的・価値観が前提になっていることを認める立場である。構成主義を教育学に適用すると、学習とは知識の需要ではなく、知識を探求し、再構成する主体的な活動ということになる。従って、日本の様に決まった教科書を頭から暗記する、という勉強法はとらない。何をテーマに、どのように学ぶかは教師と子供たちの具体的な共同作業で決められて行くということになる。歴史の学び方は年表を順々に覚えるというものではなく、自分で歴史を調べ重要事項を自分で判断し、自分で年表を作り上げて行くことになる。そんなことをしたら、子供たちの知識は穴だらけになるじゃないか?その通りである。だが、教科書も実は穴だらけなのである。

8:基礎能力は身につけさせるが後は自己責任
読み書き計算の最低限は、何が何でも身につけさせるが、そこから先は学ぶのも学ばないのもあなた自身の責任、という考え方をとる。従って教室の中で勉強しようがしまいが、それに対して教師が目くじらをたてることはない。

9:ルールを適用するのではなく、何が適切かを考えさせる
高校にもなると、授業中におしゃべりしているもの、漫画を描いているもの、ウォークマンを聴きながら演習をやるものまで出てくるが、この場合でも一方的に注意することはしない。なぜおしゃべりをするのか、なぜウォークマンを聴くのか、という説明をまず生徒に求め、その上で、その行動が今ここで行うことについて適切かどうか、という判断を生徒にゆだねる。少なくとも「なぜ注意されるのかわからない」という状況だけは絶対に避ける


Thursday, February 19, 2009

銃・病原菌・鉄


欧州で文明は育ったがアフリカでは育たなかった。その理由は下記の通り。

1:東西方向に伸びる大陸
2:従って種の分散が容易(南北の移動は気候が変わるが東西の移動では変わらない)
3:多くの栽培食物と家畜を養える
4:余剰食料から食料貯蔵が産まれる
5:人口が凋密化し、階層化された社会が産まれる

この結果、次の文物や現象が生み出される
:政治機構/文字(食料生産に従事しない文化人の発生)
:疫病(凋密な人口と都市の発現)
:外洋船
:鉄、そしてこれを用いた剣や銃


カロリーが増えれば人口は増える。ところが野生の動植物には食用に適さないものが多い。
理由は次のうちのどれかである。

1:樹皮などの様に人間の消化器で消化できないもの
2:オオカバマダラやテングタケのように毒があるもの
3:クラゲなどの様に栄養価が極端に低いもの
4:小さな木の実の様に調理が面倒なもの
5:昆虫の幼虫などの様に集めるのが大変なもの
6:サイなどの様に危険で捕まえられないもの

ここに一つのアイデアが出てくる。数少ない食用にすることのできる動植物を選んで育てれば、単位面積あたりの算出カロリーを高めることができるのではないか。

これが農耕と牧畜の資源である。農耕と牧畜は、ざっと計算すると狩猟採集に対して単位面積当りの養育人口を10〜100倍に出来る。

そしてこれは、また狩猟採集民よりも、農耕牧畜民の方が軍事的に有利であったことをも意味する。

農耕と牧畜はこのようにして多くの人口を養うことを可能にした。そして、農耕と牧畜は定住生活へと誘導する。そして定住化は出産サイクルを短縮し、さらに人口の凋密化に招く。なぜか?野営地から野営地へ移動しなければならない狩猟採集民の母親は、身の回りのものを運びながらの行動を強いられ、幼児を一人しかつれて歩けない。次の子供は、先に生まれた子供がみんなの足手まといにならずに歩ける様になるまでは産めない。

現実に、移住生活をしている狩猟採集民の女性は、授乳時の無月経や禁欲、間引き、中絶などによって、次の子を産むまでに約四年の間隔を空けている。それにひきかえ定住生活をしている人々は、子連れで移動する必要がないので養える限り多くの子供を産み育てることが出来る。多くの農耕社会において、出産間隔はおよそ2年で、狩猟採集民の半分程度である。

さらに、定住生活は余剰食料の貯蔵と蓄積をも可能にする。食料の貯蔵が可能になると、食料生産に携わらない人たちを養ったり、村や街で特別な仕事に従事する人たちを養ったりすることが出来る様になる。これは宗教的な存在や支配者の存在へとつながる余裕を生み出す。

食物は動物の様に移動できない。一方で、同じ場所で子孫を増やすことはリスクが大きい。天変地異が起こると種が全滅するからである。従って、食物としては、他力によって子孫を地域的に分散させるインセンティブが発生する。ある種の食物は風や水に運んでもらうように進化した。しかし多くの食物は、種子をおいしい果肉でくるみ、それが熟したことを色や匂いで知らせることで動物をあざむき、この誘惑にはまった動物を使って自分の種子を遠くに運ばせるという手段を選んだ。

食物の種子の多くは動物の体内で消化されずに排泄物に混じって出てきて、そこで発芽する。実際のところ、多くの野生植物の種子は、動物の消化器を一度通過しなければ発芽できない。

例えば野いちごは、熟す前は緑色をしていて固く、味も酸っぱい。種子が熟成してくると身の部分が赤くなり、柔らかみを増し、甘くなる。そして肝心の種子が噛み砕かれないよう、果肉は甘くなっても種子は苦い状態を維持し続ける。


Wednesday, February 18, 2009

脳と日本人 松岡正剛+茂木健一郎


松岡正剛:
湯川さんから聞いた言葉で衝撃的だったのは、女の足の指を嘗める様に、自然の足の指を嘗める自然科学が必要なんや、というものだった。谷崎みたいなことですか、と聞いたら、そうや、あれや。あれを物理学にしたいんや、と言われた

茂木健一郎:
一方で、文系の学者たちは相も変わらず小さな部分問題を解いているだけで自分たちは立派だと思っている。彼らは自分をアカデミシャンだという言い方をよくするけれども、アカデミシャンという言葉が何を含意しているか?単に文献学、ないしは学問の業績を文脈へあてはめるというある種の訓練を受けているに過ぎない。そしてトレーニングに従い、そのルールに従ってやっているだけの話なのですね。ルールからはみだしたものには際物だとか、色物だとか、いい加減だと批判するわけですが、彼らのやっていることはわずかな部分問題を解いているにすぎない。そのことにまったく自己批判の視点がないのですね。そのことに僕はずっと苛立っているわけです。

無限はどこにある?至る所にあるよ。君がベッドから下りて部屋のドアにいくまでの軌跡の中に、既に無限の可能性がある。

こういった無限性が、その無限の豊穣さが生かされていない・・・同じことが既にタイプライターから始まっていて、記号化、シンボル化が持っている毒の様な者が、我々の体を変質させていることは、僕は間違いがないと思う

熊本にトンカラリンという不思議な遺跡がある。地下に四百数十メートル、人がやっと通れる様な溝がある。そこを這っていくと、まさに死と再生の追体験をします。本当に怖いのです。怖いと言っても調査はされているし、周りに人もいるのですが・・・彼岸をありありと体験します。

以前、スーザン・ソンタグを東京案内したときに、新宿駅で駅員がマイクでガンガン叫んでいるのを見て彼女が「何て言っているの?」と尋ねたので「電車が来るから白線の後ろに下がれ」と言っていると答えると、次にまた何と言っているのか、と聞くので「電車が参ります」と言っていると。今度は車内に入ると張り紙を指差して「これは何と書いてある」と聞く。「ドアに注意しろ」と書いてあると訳すと、ついに彼女は「こんな醜い街は有り得ない。言葉をこんな風に使うなんて信じられない」といって怒り始めた

松岡:
菩薩にひっかかっているんです。菩薩は悟りを開かない。如来にならない仏様なんです。自分ではゴールに行けるのにゴールの前で立ち止まって他人を待っているんです。

善悪の彼岸へ 宮内勝典


ジャングルの奥深くにコミュニティを形成し、最終的に916人の信者に青酸カリを飲ませて自身も自殺した人民寺院の教祖、ジム・ジョーンズは、少年期から異様なカリスマぶりを発揮し、自宅にある自室を教会として既に熱心な少年信者を集めていた

彼は異常な支配願望を持つと同時に、暗殺される、食事にガラス片が混じっている、といった統合失調症(以前の精神分裂病)に特有のパラノイア症状を持っていた。不思議なことに、このパラノイア症状が嵩じる時期は、本格的な教祖へと成長していく時期とオーバーラップしている。いや、むしろ、教祖の狂的な妄想が、そもそも教団の求心力だったのだろう。

教団は順調に成長したものの、ジム・ジョーンズの心は崩壊しつつあった。人民寺院での説教は、自分がいかにテクニシャンで精力絶倫で女性たちを満足させることができるか、というセックス談義に明け暮れる様になった。ハーレムの王の様に、若い女性信者を片っ端から愛人にする上、白人の男性信者まで犯した。

その上、信者には禁欲を強制し、夫婦を離婚させ、セックスパートナーを自らの意思で組み替えたりした。理由は明白で、あらゆる人間関係を破壊し、教祖と信者との一対一の関係に追いつめていくためである。それ以外の人間関係は、恋人や夫婦はおろか、親子でさえ認めない。

地下鉄サリン事件は許されることではない。ただ、この事件が自分たちとは全く無関係な気違いが起こした事件だとして、表面的に弾劾するだけのテレビのコメンテーターにも反発を感じる。わかりきった陳腐な正義をふりかざすだけで犯罪を生み出した要因となる闇の深部へ降りていこう姿勢は、皆無だった。

ただ一人、東大医学部の教え子からオウム信者を出してしまったということを恥じているのか、痛ましいほどに打ちひしがれている養老孟司氏の姿に感銘を受けた。それこそが、まっとうな大人の姿ではないのか?あの教団を生み出し、信者を生み出したのは他ならぬ我々の社会なのだ。

オウム・シスターズの舞を見たとき、あまりの下手さに驚いた。あっけにとられながらも、これは見過ごせない、大事な何かを示唆していると感じた。オウムの記者会見のときに背後に映し出された曼荼羅の、あまりの稚拙さにも同様の何かを感じる。

それだけではない。私の自宅に送られてくるオウムの新聞・パンフレット・出版物など、いまどきこんなにセンスの悪い印刷物があるのかと首を傾げたくなるほどひどい出来映えである。ビデオもひどい。サリン工場をカムフラージュするために作られた発泡スチロールのシヴァ神の像も、まったく唖然とさせられる代物だった。私はただ単に、教祖が弱視だから視覚表現に重きを置いていないのだろうな、と思っていたのだが、考えてみると、総選挙に立候補したときの「ショーコーショーコーショコショコショーコー」という教祖自作の歌も噴飯ものだった。つまり、オウム真理教の作り出す芸術表現は、どれもきわめて低レベルなのである。これは何か重要な点を示唆していると思う。

麻原彰晃の著作、オウム真理教の表現に通底している特徴を端的に言えば「美の欠如」ということにつきる。こうした美意識の欠如は、オウムの教義そのものに深い陰を落としている。偏差値教育を受け、醜悪な家具と街に育ったエリートが、あれほど美意識や神性の欠落したオウムのコミュニケーションに接触し、何らの違和感もなく階層性ばかり強調する一見論理的な教義に同調してしまった。

新しい教団は必ず家族と敵対する。「イエスの方舟」事件がそうだった。若い女性たちが次々に家出して小さな教団で共同生活を営む様になった。親たちは娘を返せ、と叫び続けたが聞き入れられなかった。教団と言っても、東京郊外の空き地に立てたテントやバスが教会であり、そのバスの屋根の上には小型の寝室を取り付けて、ごくささやかな原始共同生活を営んでいたに過ぎない。「千石イエス」と名乗る教祖も、正式の司祭ではなく、刃物研ぎの行商をするかたわら布教活動をしていた。キリスト教の伝統からも逸脱しており、これがさらに疑惑をあおった。そしてマスメディアや家族の追求が激しくなった1978年、「イエスの方舟」の信者たち26人はこつ然と姿を消した。

人民寺院と同様のプロセスと結末を迎えたカルト教団としては「太陽寺院」がある。太陽寺院の集団自殺については辻田美が「カルト教団 太陽寺院事件」(みすず書房)に詳細な記録がある。

太陽寺院もそうであるが、カルト教団に共通しているのは「名前を変える」ことである。オウム真理教でも「ホーリーネーム」と称して信者には別の名前を与えた。名前を変えさせることでアイデンティティを破壊し、過去の世界に戻る橋を打ち壊すのである。

確かに、大悲心、つまり他人の利益を願う心がありさえすれば、殺生そのものも罪悪とはならないという「条件付き殺害肯定論」は、大乗仏教の戒律観の一形態として存在する。これがポアの論理である。この部分は、中村雄二郎著「日本文化における罪と罰」(新潮社)に、よく噛み砕いた形で引用されている。




Tuesday, February 17, 2009

歴史上、最高の一年はいつか?

神様が出てきて、「理想的だったと思える一年を、どの時代でもいいから言ってご覧なさい。世界が、その一年を永久に繰り返す様にしてあげる」、と言ったとする。

どう答えるだろうか。

進歩史観的には、いまだかつてない最高の社会が、未来にあると思ってこの問いに答えることを拒むべきなのかも知れない。

日本だけでみれば、空前絶後の好景気に湧いた1989年が理想??いやいや、犯罪率も低く、循環型社会だった元禄期じゃないのか?いっそ日本的文化が最高に花開いた平安期??

でもそのとき世界がどうだったのか?世界史が100点満点中3点だった僕にはよくわからない。

うーん・・・

歴史家の自画像 阿部謹也


1:時代が違えば人間も違う
:時代劇に出てくる人間を江戸時代の人間と思うのは間違い
:時代が違うと考えられない行動や考え方をする人間がいる
:読者は時代劇を見て、江度時代の社会に自分を投影している

2:ラテラノの公会議は世界史的な転換点
:告白をシステム化して近代的自我の成立を促した
:フーコーもラテラノの公会議を非常に重要視しているが、なぜか余り他の人は触れていない

3:カタリ派の人は死を恐れない
:彼らは現在が地獄だという
:完全者になって最後に祝福を受ける、というのが理想

4:ものを考えるのは瞬間
:一時間考えるなんてできない
:本を読むのは大変・・・自分とは体質の違う相手の考えを理解することで抵抗がある
:わかるということはうれしいことだが、それは考えるということとは違う
:読みながら、「ハッ」と思ったことをノートする・・・その一瞬が考えている、ということ
:その瞬間の密度が薄れてきたら、学者としてはもうだめだと思うんです
:そういう時期が、60代になって見えてきました

5:仕事は常に最後だとおもってやる
:いつも最後だと思ってやっています
:そうじゃないとできないですよ、次があるなんて思ったら、そこでやらなくなってしまいます
:日本の歴史研究者で、本当に好きでやっている人って少ない
:好きさ、の度合いが浅い人が多くて、やっぱり商売にいっちゃいますね
:本当に好きな人は、やっぱり時間をかけて研究します
:そういう人は、本当に少ない

6:宗教にも文化レベルのものと文明レベルのものがある
:イワシの頭も信心から、は文化の段階の宗教
:こういう迷信的なものはもういくらでもある
:三大宗教は、こういった宗教とどこが違うかというと単純で経典がある
:経典があるから伝達が可能、解釈が可能で伝わっていく
:経典がない宗教は人と一緒に滅んでしまう

7:習慣に根付いた犯罪というのもある
:日本には贈与が根付いており、人間関係の基本になっている
:政治の次元だけこれをきれいにしろ、といって無理
:日常生活の革新ということだから、そういう意味で汚職の追放というのは簡単ではない
:お中元/お歳暮はいっさい禁止、というくらいにしないと無理だろう

8:文明はよそ者をいれるけど文化はいれない
:高村光太郎はパリで阻害された
:漱石はロンドンで阻害された
:外国人が日本にきて「源氏物語を研究しています」と言うと、それは大変ですね、とか答えるが心中では「おまえにわかるものか」と思っている

9:文化が文明になるには他民族を傘下におかないとだめ
:日本は他民族を支配した経験がない
:朝鮮や台湾は多少支配を及ぼしたけど、日本語とか日本文化を押し付けて失敗した
:本当に、永続的に支配しようと思ったら支配するものは支配される者から取り込まなければだめ
:支配する者が変質することで支配は存続する
:朝鮮人の人間関係や、台湾人の人間関係を取り込むことで日本人自身がかわることによって日本文化は日本文明になりうるわけですが、そうではなく、官幣大社などを強制したりして日本の神様を押し付けた
:ローマは異民族支配を通じて分明になった
:近代以降ではアメリカがそれにあたる・・・なぜ可能だったかというと寄せ集めだから

10:現代人は世界を自分に投影する、中世人は自分を世界に投影する
:典型的なのは星座

11:文明の担い手と文化の担い手は異なる
:文化の担い手が文明の担い手になったときには、だいたい文化の担い手からは足をあらっている

日本の行政はすばらしい?

実はあまり知られていないのですが、人間ドック、というシステムは日本にしかありません。従って、人間ドック、という言葉自体も日本にしかない。外国人に向かって人間ドックをいくら訳しても意味は通じません。そもそも仕組みとして存在していないのです。

この仕組みは、高度経済成長時代に、船が一年の航海の疲れを休めつつ、船体についた藤壷やさびを落として新しい航海に出かけられるのと同じ様に、働き盛りの人々が、その体を隅々まで検査するドックの様な仕組みが必要であるという、一種の国策から生まれました。行政サイドから見てみれば国民の生産力を最大化するための一つの方策、ということであったかも知りませんが、動機はともかく、制度としては非常に優れていると思うのです。

この検査が、健康保険に入ってさえいれば3万円から5万円程度で受けられることを、日本人のほとんどが何とも思っていない・・・むしろ「高いな〜」と思っているようなのですが、例えば米国で同様の精密検査を受けようとすると1万ドル以上かかると聞いたら、どのように思われるでしょうか。事実上米国の健康保険制度は破綻しており、我が国でも近い将来米国の様な状況に陥ることが懸念されていますが、ベースとして健康保険関連で国民が享受している行政サービスのレベルが、そもそも米国は桁違いに低いことをまずは知っておくべきではないでしょうか。

日本の政治や行政は、いわゆる「進歩系マスコミ」(苦笑・・・)と、それに踊らされやすい人たちのおかげで実態以上にひどい状態と考えられていますが、様々な社会的な指標、つまり乳児死亡率や、一人当たりの医療費、犯罪率、文盲率、一人当たり生産力といった数値をみてみれば、様々な問題を抱えいたとしても、まずは世界トップレベルのバランスを維持した、たぐいまれに優れた社会であることを認識しておくべきです。

かといって問題がまったくないわけでは、もちろんありません。個別個別に見ていけば、たくさんの課題はあるでしょうが、かといって良い点をすべて無視していい訳ではありません。他国に範を取るとしても、その国の良い点悪い点があって、しかもそれらが表裏一体をなしていることを、我々はゆめゆめ忘れてはならないと思います。

と書いたとたんに中川さんがヘベレケ会見の責任を取って辞任・・・・うーn。
ある意味、政治家がここまでダメなのにちゃんと機能している日本って特殊な国なのかも知れません。

インターネット廃止論

インターネットがあることで、誰か幸せになった人っているのでしょうか?むしろ不幸になった人の方が多いんじゃないでしょうか。

インターネットが出てきた当時、世界的な草の根コミュニケーションが活発化されて紛争や戦争の抑止になる、という説が出てきましたが、そういう意見は社会というものを非常に甘く見ている様に思います。

つながりたい人とだけつながることが許される社会というのは非常に危険だと僕は思っています。それは、多数のカルト教団が併存している社会と同じですから。

社会学者のデュルケムは自殺を4つに類型化した上で、成熟社会においては絶望でも自己犠牲でもない、連帯の喪失による孤独感による自殺=アノミーが増加することを予言しました。

インターネットは、成熟社会において、それがなければ孤独感に苛まれながら放浪するだけだった人に、寄る辺を与えているっていうことなのかも知れません。

Monday, February 16, 2009

自転車




昨年の秋頃に購入した自転車です。

イタリアのデローザという工房製です。デローザは1970年代にツールドフランスを5連覇した伝説のチャンピオン、エディ・メルクスの愛機としても有名でした。

当時のデローザの価格は今の値段で700〜1,000万円程度で、現在で言うポルシェとほぼ同じ価格でした。今、デローザは、まあ大型のハイビジョンテレビと同じくらいで買えるようになったのだから、僕らは円の強い、いい時代に生きているわけですね。

本格的なロードレーサーは初めてだったので、氷の上を進むような無音、無抵抗のスムーズな橋に、最初は「おおお!」と感動しました。

現在のロードレーサーはカーボンが主流になってしまいましたが比強度の関係からカーボンはどうしてもフレームが太くなってしまいます。一方で僕のデローザは伝統的な鉄=クロモリのフレームで、このフレームを愛する人はその細さ、エレガントなたたずまいに、やられてしまうんですよね。乗るのも大好きですが、パイプをふかしつつウイスキーをなめつつ、自転車を眺める時間が大好きです。


Sunday, February 15, 2009

モハメドアリとマイクタイソン

モハメドアリとマイクタイソンは、双方ともに米国のボクシングヘビー級のチャンピオンですが、以前から、この両者が人に与える影響の質には大きな違いがあると、何となく感じていました。

その、質的な差が、最近少しずつわかり始めてきました。

乱暴な言い方ですが、社会のシステムに対して大きな疑問を抱きながら、システム自体を利用したのがアリで、システムそのものの善悪を問うことなく、そのシステムに完全に耽溺して最適化したのがタイソンだと、いう気がしています。

モハメドアリという名は、よく知られていることですが、本名ではありません。もともとはカシアスクレイ、という名で、ローマオリンピックでもその名で金メダルをもらっています。マルコムリトルが、そもそも名字は奴隷時代の名残でついているものであり、従って自分の出自はわからないのだ、という意義を込めて名字をXとし、マルコムXと名乗ったのと同様に、奴隷時代につけられた名前を引きずることを厭って、宗旨替えとともに教祖の名を自分の名前にしたのだと、聞いています。

僕はアリについてはよく知りませんが、決定的なエピソードだと思うのはベトナム戦争の兵役を忌避したことです。この点は、当時トップスターだったエルビスプレスリーが、お国の命ずるままに兵役に服したのとは、大きく異なる点です。もちろん、プロパガンダ的な観点からエルビスも危険な任務には服さず、後方支援的な業務を短期間努めて兵役を終えました。トップのポップスターが、前線でゲリラに殺さて反戦ムードが一気に高まることを国防省や政府が恐れたことは、容易に想像できます。そして、恐らくアリのケースでも、裏側での政府とのさやあてはあったことでしょう。兵役なんて形だけのもので、君には危険な任務は担当させない。適当につとめてくれれば、それでいいんだ、と言い寄る国防省の声があったことは容易に想像できます。それでも、彼は断固として徴兵義務を拒みました。理由は、「ベトナム人を殺せ、と言われて、じゃあ殺します、という理由が自分にはない。自分は何らベトナム人に恨みがない」という、恐ろしくも単純な理由でした。そして、この兵役忌避のために、ヘビー級チャンピオンという資格を剥奪され、以後、キャリアの絶頂期において無期限のボクシング試合停止、という処分を受けます。第二次大戦中の日本でいう「非国民」ということでしょう。

僕の父方の祖父は、帝国陸軍の将官でマニラで戦死しています。先日訪れた福沢諭吉展でも、やはり1940年代の塾生の多くが、神風特攻隊で死んでいること、そしてその多くが、出撃直前に恩師や家族に手紙を認めており、その人生には一片の悔いもないことと、日本のその後、家族のその後を、生きてその運命を肩に背負うことになった人に、くれぐれもよろしく頼む、という旨が書かれていました。

中でもよく覚えているのが、特攻隊の出撃前夜に、経済学部の学生が認めた手紙で、その最後には「明日、一人のリベラリストが、この世から消えることになります。しかし、その本人には一片の迷いも、悔いもないこと。そして、このような終焉を迎えることに100%満足していることを、ここに書き残しておきたいと思います」という言葉が忘れられません。

学生時代、友人が自宅に訪れて夕食をともにすると、必ず面食らって食後に僕に聞いてくることがありました。曰く「お前のうちって、毎晩あんな風に激烈に議論するの?」。

僕は学生時代からアリの考え方に共鳴し、いくら国事とは言え、納得できない戦争に命を捧げることはできない、というスタンスの持ち主でした。一方で両親、特に父は、その父を戦争でなくしたこともあるかと思いますが、政治はそもそも100%の納得よりも国の絶対的な利益を優先するもので、それに納得できるかできないかで、それに協力するかしないか、という考え方自体を否定する、というものでした。とはいいつつも、その父でさえ「100%○○だ、という意見があったら、だいたい間違っていると考えればいい。世の中は0でも1でもないし、右でも左でもない。そんな単純なことを言うやつは頭のできが悪いんだよ。周ちゃんは、きっとそういうのとは仲間になってはいけない」といいながらダンテ、シェークスピア、プラトン、屈原の言葉を引用しながら諭すのが、食後のお茶を飲んでいる時間の定番でした。

正直言って、教養レベルでも頭脳のクロックスピードでもかなわない父と議論すると、常に劣勢になり、最後は論破されるというオチでしたが、いつも遊びにくる友人も、その議論の凄まじさに、辟易している感じでした。

まあそれはともかく、アリとタイソンの違いと考えると、「疑いを持つことの大事さ」ということを感じてしまうのです。

これは、右派、左派という問題ではなく、テーゼに対して、常に斜めに見ること、客観的であることの大事さにつながると思うのです。

アリという人は、決して教養のある人ではなかったと思いますが、個人の思うところに即して自分の行動を決め、それを一貫させたという点において見習うべきものがあると思います。これは、70年代当時失われつつあったアメリカ的な美徳であったのだと思います。対して、タイソンは、恐らくボクシングの技術・・・つまり相手を叩きのめすという機械的な技術に関しては、そおらくアリより上だったのではないかと思いますが、自分がよってたつシステムや社会の仕組みについて疑いを差し挟むということを、まったくしなかった人だったと思います。

ルールはこうこう、従ってこれをうまくやれば、莫大な金が入ってくる。というインプットに従って、自分を仕組みに最適化し、マシーンのように鍛え上げた、という感じです。そしてその先に何があるかは、彼の問いのリストの中にはありません。100億円近いファイトマネーを手にして、その先に何があるのか?

ルールに則って戦って莫大な金を得ることと、ルールそのものの問題を指摘して、そのルールの中で戦いつつルールの是正を試みること。後者は遥かに大変です。

どこが大変かというと、ルールを否定する人は殆どの場合社会的には敗者なんですよね。あ、この場合の敗者というのはもっと広義で、例えば論文を学会に出すだけの大学教授や、お金はあるけど実際に社会を動かすだけの権力や影響力を持っていない音楽家やアーティストも含めています。

数年前に一度、歴史上の革命がどういうカロリーの上昇で発生したかを勉強してみたことがあって、だいたい体制の中枢から革命を指向する人が出てこないと、難しいんじゃないか、という思いに至ったことがあります。フランス革命のロベスピエールや明治維新の勝海舟、ソ連解体時のゴルバチョフは皆、体制側の人間です。

これだけ明白になっているにも関わらず、エスタブリッシュメントの仲間に入らないで社会を変えられると思っている存在というのは、極論すれば唾棄すべきだと思っています。僕は社会はもっとよくできると思っていますが、であればこそ、社会の中枢に近づくことが大事なのではないかと思っています。一方で周りの人が、社会システムそのものに最適化するゲームに身をやつしているので、それはそれで「くだらないな」と思いながら同じゲームを戦って、同じ点数を上げなければいけないという、非常につらい道なのですが、まあそう考えているんですよね。


ナイロンバッグ


以前からバカにしていたナイロンバッグをついに購入しました。

最近、クライアント先に常駐のプロジェクトにアサインされたのですが、電車での移動距離が長く、これまで愛用していたゼロハリバートンでは肉体的な苦痛が耐え難くなり、親友の勧めもあってついに購入に踏み切りました。

用具類一式を入れてみての感想は・・・軽い!これは確かにベラボーな軽さです。
もう他のバッグには戻れないのかも・・・

でも、こうやって食わず嫌いで過ごしていることが他の案件に関しても多いのかも。偏屈なのも考えものですね。

Thursday, February 12, 2009

燃えよ剣

燃えよ剣

一言で言うと新撰組副長だった土方歳三の生涯をつづった本です。

一種、新撰組というベンチャーの創業者の物語という読み方も出来ます。

土方は一種の組織造り、組織運営の天才で読めば読むほど現代に生きていればきっとビジネスマンとして活躍しただろうな、という気がしてきます。

以前に、大好きだった塾の国語の先生に言われたのですが、新撰組というのは世界史的に見ても稀なほどの純度の高い剣客集団で、その規模を考えると実質的には史上最強だっただろうとのこと。

それだけのパフォーマンスを組織として維持するためにどのように人を集め、教育し、規律を持たせるか。ここに単なる歴史小説として楽しめる、という以上の学びがあり、つまり色々とビジネス上のヒントがあります。

ただし、個人的にアスピレーションを感じるかというと・・・・ちょっと違う。この本はもともと親友から読め、と言われたのがきっかけだったのですが、その友人が感じたような憧れ・・・本人は「滅びの美学」と言っていました・・・、僕自身はあまり感じませんでした。

むしろ、イライラしたという感じでしょうか。

この人は小さいと思う。

歴史的な視点と世界地理的な視点の2つが全く欠けていて固陋に武士道にこだわり、侵略を目論む西欧列国に対し、日本国全体の足並みを揃えていこうという国事の足を引っ張って引っ張って引っ張りまくった団体の張本人が新選組で、その親玉が土方です。

加えて、一種の殺人嗜好症のようなところもある。新撰組副長時代の京都から東北、最後の五稜郭まで含め、とにかく斬り、裂き、突いて血煙を浴び続けます。何故それが可能だったかというともちろん本人の剣術、軍略センスもあると思うのだが何より幕府から「守護」のオーソライズを得たことも大きいのでは。

つまり土方という人は局地戦での軍略という点においては戦略の天才なのですが、国家間での争い、という点については全く戦略的視点が無い人のように見えるんですね。これに軍事力だけは突出して備わっているわけだから政治的には極めて扱いの難しい人だっただろうと思います。

話の後半で、幕府に忠誠を誓って江戸城に居座ろうとする新撰組と土方に対して、それを疎ましく思う勝海舟が「甲州の城を落せ。落せたらそのまま甲州を差し上げる」として城から出陣させるクダリがあります。なけなしの軍資金を与えて京都から攻め上がる官軍の防衛となれ、ということなのだが、種明かしをすると無血開城を目論む勝海舟にとっては江戸城で殺人嗜好症でかつ薩長から蛇蝎のように嫌われている新撰組+土方を追い払うことが政治的な工作のためには都合がよかったということなのです。

やはりこういうところを読むと時代を読む目、大きな視点での戦略ということにかけてはとてもじゃないが土方は勝の足元に及ばないな~という気がします。

面白くて考えさせられた、良い本でした。

Wednesday, February 11, 2009

スウェーデンについて

2009年2月11日

福祉国家の闘い 武田龍夫

最近、日本が進むべき方向性の一つとして北欧諸国の社会モデルが参照できるのではないかと思って、いくつかの本をパラパラと読み進めています。まだ、数冊程度しか目を通していないのだけど、現時点での印象は「マスコミを通じて喧伝されている北欧諸国の理想国家的イメージは、かつてのソ連のそれに対して朝日新聞が行ったプロパガンダと同じだな」というもので、ちょっと落ち込んでいます。

そういう状態で、今日、JBIC(国際協力銀行)において排出権取引のインフラ作りをしている友人と一緒に長い昼食を取ったのですが、その際に僕が「でもスウェーデンって90年代に原発は全廃するって決めて、で火力発電に依存せざるを得なくなるけどCO2排出量は増やさない・・・じゃあ経済成長は捨てるのか、というと、これはこれで追及する、という無理難題を掲げて国全体で何とか推進しているんだから、スゴイよね」という話をしたところ、「ああ、それ、昨日ちょうど発表されましたけど、スウェーデンも原発の全廃やめることになったんですよ」とのこと・・・驚愕。実は原発廃止先進国のドイツでも1998年に原発をなるべく早期に全廃する、ということで議会の合意が成立しているのですが、実質的にはこの計画も崩壊していて原発の稼動を高める方向で行政は調整に入っているのだそうです。但し、ドイツでは緑の党が議席を結構取っているので、調整が難航しているらしい。

要するに、CO2の排出をなるべく減らす、という京都議定書が発効になって段階で、火力発電に頼れなくなったということらしいのです。その友人はJBICの前職が東京電力なのですが、曰く「先進国で原発を使わない限り、CO2の排出を減らすのは絶対に不可能」ということでした。僕も「プラントで生産されるエネルギーのうち、末端までデリバリーされるエネルギー総量の歩留まりを改善する、ということは考えられないの?」という質問をしてみたのですが、この点についても「既に日本ではこの歩留まりは96%程度であって、大きな改善インパクトを期待できない」とのこと。また、他の自然エネルギーに関しては、「日本全土に太陽光パネルを敷き詰めても、東京都で必要とされるエネルギーすらまかなえない状況」ということでした。なんだか難しいらしいのです。

音楽家の坂本龍一は「原発は廃止せよ」と言う一方で「CO2は減らせ」と騒いでいますが、その友人に言わせると「専門家は殆ど聞いてないです。ハァ?っていう感じですね」とのこと。やっぱりそうか。

ということで、若干ヨーロッパモデル、北欧モデルに対する幻想が僕自身の中で崩れていくここ数週間です。

■女性の社会進出⇔家庭崩壊⇔高額の税金は表裏一体の関係
- ルンド大学の教授:ポールソン女史は言う
- 昔の大家族は老人や病人、職のない家族の面倒を見てきた
- スウェーデン女性たちが家の外で働くようになり、生産に寄与するようになったが、その家の中の仕事は消えない・・・それは誰か他の人々、つまり公的機関が引き受けることになった
- こうして結果的には公平で平等な社会を作り上げられた
- しかし、実際に女性たちを待っていた労働市場は賃金給与も低く狭い市場であり、そのために社会福祉国家は伝統的な家庭支出をかたがわりしているが、それは公的支出の7割にも達し、スウェーデンの総所得の半分になっている
- 率直に言って、家庭を崩壊させたコストは高くついたといわざるを得ない

■経済成長なくして福祉はない
- なぜスウェーデン型福祉が行き詰ったか
- 理由としては、人口構造の変化、福祉公的部門の肥大化、福祉官僚主義の弊害の表面化、福祉そのものが生み出す悪徳や利権、といった点が挙げられる
- 福祉は大変なコストがかかり、自律的に拡大運動を続けるため、経済成長がないと福祉を維持できなくなる
- 80年代に入ってすぐ、スウェーデンの公的部門の支出はGDPの60%を占め(50年代は30%程度)、170万人の雇用を集めるに至った(スウェーデンの労働人口は410万人!!!)

■国民全体が豊かな中産階級
- 殆どの国民が別荘、モーターボートを保有
- 年間の夏休みは一ヶ月が標準的
- 日本よりも広い国土に890万人の人口でかつ高品位な鉱物資源が無尽蔵にあり、水力も豊富で、国土全体は森林に覆われている・・・加えて民度の高い優秀な国民・・・・基礎体力としての国力が日本とは異なる

■ 一方でネオファシズム的な側面も存在
- サルトルは、スウェーデンをネオファシズムの国として、非常に危険視していた
- 事実、あまり知られていないが1934年から1976年までの間に、強制断種、不妊手術が、6万人以上のジプシーやラップ(スカンジナビア半島北部の少数民族)民族、身体障害者等を対象に行われていた
- 但し、この問題でスウェーデンを責めるのは簡単だが、当時はノルウェーでもデンマークでもスイスでも・・・・つまり広く一般に「当然」と考えられていたことを我々は忘れてはならない

■中立とは武力で勝ち取るものである
- スウェーデンは、1813年のナポレオン戦争以来、現在まで180年以上もの中立を守り抜いた世界でも類例のない国である
- クリミア戦争でもスレスウィッヒ戦争でも第一次大戦でも第二次大戦でも、その後の冷戦でも一貫して中立を維持してきた
- 一方で、スウェーデンでも、またスイスもそうだが、国民皆兵の徴兵制度があり、また国力に不相応なほどの重武装国防力を有している
- (そういえば、SAABは日本では自動車メーカーとして有名だけど、もともとは航空機メーカーで、スウェーデン空軍の戦闘機はSAAB製であることを思い出したりする。国が膨大な軍事費を使うことで、購入国が一国でも戦闘機を作るだけのスケールを維持できるということなのかも知れない)

■ノーベル賞は外交の武器でもアリ、一種の輸出産業である
- 選考には従来から非常に問題があると言われている
- 特にヒドイのが文学賞で、イプセン、ゾラ、トルストイ、リルケ、カフカ、ジョイス、グリーン、プルースト、ストリンドベルイ、志賀直哉、谷崎潤一郎、三島由紀夫、井上靖らが受賞していない一方で、受賞者を並べてみると???の印象をぬぐえない
- 平和賞は完全に政治のツールになっており、もっとひどい・・・・キッシンジャーもサハロフもアラファトも佐藤栄作も選考委員会で対立が起こり、アラファトでは激論の末にノーベル賞選考委員の辞任という事態まで発生した
- 人道的なもの、例えばシュバイツァーやマザーテレサ、アムネスティ・インターナショナルや国境無き医師団の際にはあまり異論が無いが、では例えばガンジーはなぜ受賞しなかったのか、不思議に思わないだろうか?答えは単純でイギリス政府に遠慮したから

■ 将来に不安のない福祉国家だからと言って幸福ではない
- 例えばスウェーデンの自殺率は10万人当り20人程度で、欧州の国としては平均的(旧東欧諸国はおしなべて高く、例えばルーマニアは10万人当り70人程度)
- 犯罪も多い・・・しかも一人当たりGDPが高まるにつれて犯罪率は高まっている!!
- 例えば刑事犯罪のここ数年の平均は日本が大体170万件であるのに対して、スウェーデンは100万件だが、スウェーデンの人口は日本の6%程度でしかない
- 強姦事件は日本の20倍以上、強盗は100倍以上で実にアブナイ国

■ スウェーデンの女性は怒っており、それが男性のタイヘンなストレスになっている
- スウェーデン女性は美しい・・・女優みたいなのがそこら中にゴロゴロいる
- グレタ・ガルボやイングリッド・バーグマンもスウェーデン女性で、要するに八頭身の西洋人形みたいのがそこら中にいる、と考えればいい
- 米国の心理学会では、一般的にスウェーデンが固有的に示す病理的な側面の原因は女性の強さにある、と言われている・・・・心理学用語の「男性的抗議」が強く出ているのである
- 独立願望が強く、依存を嫌う。情緒面で不安定で荒廃し、しかも理想とする男性を自分で育てるという考え方を持たない。利己的で冷淡で永遠に欲求不満(為念:すごい書きぶりだが僕の意見ではありません)
- だから、日本人女性と結婚したスウェーデン男性たちの特集が雑誌で組まれ「彼女たちはここまで夫に尽くしてくれる、耳かきもしてくれる」というオノロケ記事が出た際に、女性団体から雑誌社に抗議が殺到した・・・曰く「日本人女性は世界の女性解放の敵だ、我々は奴隷が主人に感じる愛情を否定する!」
- つまり、ストリンドベルイを生んだ国ということである

■結果として社会進出は、「一応している」と言うべきで、実際にはまやかしの面もある
- 数字で見る限り、スウェーデン女性の社会進出は世界一である
- 国会議員の約4割が女性(EU平均は2割程度)
- 1999年秋に組閣したペアソン内閣は女性閣僚の方が多かった
- しかし、こういった数字の下で、本当に女性が社会的に慈しまれているかどうか、という点では疑問である
- 例えば家庭の中における女性の位置づけは、日本より遥かに低い上、夫に比較して所得も低いために、つねに劣等感に苛まれている
- また労働率が女性の社会進出率が80%と言われて喧伝されるが、約半分はパートである
- 政治家への進出もクオタ制による割り当て選挙のおかげであり、要するに実力で勝ち取ったものではない、という後ろめたさが常に付きまとっている・・・・男性が実権を握っている政府の中で、うるさい女性を黙らせるために制度を少しイジって満足させる、という戦略が見えてくる
- 結果的に、女性の社会進出は大きく偏向しており、職種は特定部門の20種類程度に集中している一方で、男性の職種は160種程度に広く分散している
- また経済・金融・産業界の女性トップは一人もいない
- 結論から言えば、スウェーデン女性の社会進出は、まやかしの表面的なものでしかない

Thursday, February 5, 2009

マーレイの言葉に思うこと

2009年2月6日

あのアイルトン・セナも在籍していたF1チーム:マクラーレンのテクニカル・ディレクターとして一時代を築いたデザイナーでゴードン・マーレイという人がいます。この人、F1マシンの底から強制的に空気を吸い出して負圧を生み出し、地面に車体をへばりつけるコンセプト=「ファンカー」を作ったり、極端に空力を優先してドライバーを仰向けに寝そべらせる様なマシンをデザインしたりとアノテコノテの素っ頓狂なアイデアを実行し、しかもそういったアイデアで開発された車が実際に早かった、という素晴らしいデザイナーなのですが、その彼が先日、あるインタビューで「20年前はアイデアがひらめいてそれを実験するとラップタイムが5秒とかポンッと上がったものだ。今はナンですか?物理的に収斂してしまって風洞実験を18時間行って0.5秒の改善?そんなことに人生を費やすのなら私は家でロックを聴いて寝ていますよ」と応えていました(マーレイは故ジョージ・ハリスンとも親交が深かった生粋のロックファンで自宅には数千枚のレコードを隠し持っている由)。

この言葉に、ここ2年ほどずっと引っ掛かっています。

18時間風洞実験をして0.5秒しかラップタイムが改善しない。このバカバカしい取り組みに関係者はそれこそ粉骨砕身で打ち込んでいるわけですが、今、こういったバカバカしさは先進国の経済活動の殆どを覆っているように思います。ハーバード大学のクリステンセンが指摘した「イノベーションのジレンマ」もそうですが、要するに、受益者にとってどうでもいいくらいのマージナルな進化しか期待できないことに、人類の英知や才能が膨大に注ぎ込まれている、ということです。

しかし、一方で、市場原理はそのマージナルな差を精密にスキャンして、敗者には市場からの退場を迫ります。この点の残酷さは0.01秒でも遅ければ敗者となるF1と変わりません。従って、今現在のシステムに我々の社会を乗せている限りは、このバカバカしさから逃れることは出来ないように思えるのです。

そして、その集団としてのバカバカしい取り組みの結果、20世紀という時代が千年後に何を残せたのだろうか、ということを考えると、このようなバカバカしさに、21世紀も人類が邁進する、ということは、これは非常に愚鈍ではないのか、という気がしてしょうがないのです。どうするか?マーレイの様にロックを聴いて寝る、というのもありなのかも知れません。

仕事中なので、ちょっと中断してまた考えます。

Wednesday, February 4, 2009

この世で一番ハラたつこと

最近よく出会うのだが、たまにトイレで手を洗おうとしてセンサーに手をかざしても、なかなか反応しない蛇口がある。

これほどハラの立つものはない。

先日などは、さんざっぱら手をブラブラやって、やっとこさ水が出た後、今度は洗った手を乾かそうと思って、やはりセンサー式の ドライヤーに手をかざしたら、これも反応しない!

後ろに人もいるため、狼狽しつつも、手を濡らしたまま出るのもヤなので、なかなか反応しない機械に手を突っ込んで、後ろの人に卑屈な笑みで「へへへ~すいません」と言いながら、手をブラブラ上下させる、という行動は個人の尊厳を崩壊させるギリギリの線上にある。なぜ僕がこんなクサレドライヤーのために、こんな屈辱を味わあねばならないのか。

最近、こういったお節介系のサービスによる怒り、というのが多くなっている気がする。

例えばエレベーター。「6階です」とか「ドアが閉まります」とかしゃべるヤツがある。静かさは贅沢なのに、私の静かさは貴方の全く無意味なアナウンスで台無しにされている、と感じてしまうのだ。カルシウムが足りないのだろうか?

確かに混んでいるエレベーターだと階数表示が見えにくいこともあるだろうが、本当にこんな機能、意味あるのか?

実際には殆ど効用がないのに、どっかのメーカーがつけ始めて、付加価値をつけることに深く考えられ
ない競合他社が、それっと付和雷同した結果、どこも同じ「おせっかい音声つき」のハードが蔓延することになってしまったのだろう。

ウルサイ、ということで言うと目にウルサイ広告も実に腹立たしい。最近のタクシーは、後席に液晶モニターがついていて、バカ面をしたタレントがチャカポコ画面で動いており、これが実に目にウルサイ。こっちは外の景色を楽しもうと思っても、目の端でチカチカ動くので実に腹立たしい。美しいものを見るのは個人の権利なのに、その権利を暴力的に奪われているという気がしてしまう。

音声も同じである。ご乗車有難う御座います。またのご利用をお待ちしております、なんて機械に言わせることの意味をもう一度サービス提供者はよく考えてみた方がいい。顧客にとってどんな付加価値があるのか?運転手さんから直接言われるのなら、まだ気持ちいいが、文字通り魂の入っていない言葉でそんなこと言われても、耳にわずらわしいだけだ。

こんなサービスとかガジェットの開発に、携っている人がいることを考えると気の毒でならない。