9/14 ウェブは資本主義を超える 池田信夫
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■個人をプロセッサ、組織をネットワークと考え、情報処理コストと通信コストのどちらが相対的に高いかによってネットワークの構造が変わる
- 情報処理コストがネットワークコストより相対的に高いときには情報を中央集権的に処理して端末に送ったほうがよい
- 逆に通信コストが高い場合は端末で分散処理して通信料を減らしたほうがいい
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■広告費だけでなく販促費を視野に入れることで大きな市場が期待できる
- 日本の広告費は約6兆円でGDPの約1%である・・・この水準は一定しており、この中で市場を食い合っている以上は大きな成長は期待できない
- 一方、日本における顧客へのマーケティング費用の総計は20兆円、世界全体では100兆円くらいあるとされている
- グーグルが狭義の広告産業を超えて従来のどぶ板営業を代替するものだとすれば、広告市場を越えた大きな成長機会をつかまえるかも知れない
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■インターネットに関連したビジネスではサービスのリリースタイミングが死命を決する重要性を持つ
- Web2.0という言葉はコンピューター中心からネットワーク中心への移行という概念を含んでいるが、これは昔サンやオラクルが流行らせようとした「ネットワーク・コンピューティング」とか「シン・クライアント」といった概念に近い
- これらの概念は論理的にはありえたのだろうが、いかんせんダイヤルアップの時期に出てきたのは早すぎた
- 普通、一度失敗したビジネスモデルは二度とものにならないが、ムーアの法則(半導体の集積度が18ヶ月で2倍になるという経験則)によってコストが3年で1/4になるITの世界では、3年前に赤字だったビジネスモデルが、いまやったら黒字、ということがありうる
- グーグルは検索エンジンのパイオニアでもなければ、検索広告の発明者でもない・・・問題はそういう技術をどう組み合わせてどういうタイミングで世に出すかという、まさに戦略の問題なのである
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■ブラウザにインターフェースをすべて依存するようになるとOSの存在意義が薄まる可能性がある
- ネットスケープの登場によってウィンドウズは単なるデバイスドライバなる(マーク・アンドリーセン)
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■マイクロソフトの失敗は広告経済モデルの軽視
- チーフ・ソフトウェア・アーキテクトとしてビル・ゲイツの後継となるレイ・オッジーは「インターネット・サービスによる破壊」という内部文書でマイクロソフトの失敗の原因を分析している
- その第一に、パッケージソフトの販売という伝統的な収益源にこだわって広告による経済モデルを軽視した結果、インターネットによる効率的な流通システムの開発に遅れをとった、という点をあげている
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■ビスタはIBMと同じになるかも知れない
- かつでのIBMは超高性能な大型コンピューターを守ろうとしてPCという破壊的イノベーションに敗れた
- 大した新機能もないのに大きなメモリを食うビスタは典型的な持続的イノベーションが、顧客期待価値を超えて余計な機能を付加している様相になっている
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■権利処理の自動化には定型的なプロセスの設計が必要
- 権利処理を自動化するには、まず権利を一本化し、許諾権を切り離して報酬請求権のみとし、ライセンス料に定価を定めるなど、定型的な処理手続きを作る必要がある
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■ウィキペディアのルールでは、最終的には精度は担保されない
- ウィキペディアは「最終的に信頼できる情報源」にリーチ出来ることを目的にしており、真理の提供を目的にしていない
- ここで言う信頼できる情報源とは別途定義されており、それはたとえばニューヨーク・タイムズやBBCで、実はウィキペディアは「信頼できない情報源」に分類されている
- このように明文化されたルールだけを根拠として正当性そのものの考察に踏み込まないこと、それが真理であるかどうかを問わない、という考え方は法学でいう実定法主義(Legal Positivism)であるが、これは仲間内メディアでは機能するが、信頼できるはずの情報源が信頼できないとき、機能しない
- たとえば従軍慰安婦に関して、ニューヨークタイムズもBBCも「慰安婦は日本軍の性奴隷制度だった」と報じており甚だしい事実誤認をしている
- こういうケースでは信頼できる情報源が信頼できない、ということになり、このルールは機能しない
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■百科事典はそもそも啓蒙思想の最大の成果であった
- 百科事典は18世紀にディドロとダランベールが編集した「百科全書」が最初
- 教会による知識の独占の時代を乗り越え、神学による学問支配を乗り越え、個人による自由な知の集積を作る作業の成果であった
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■多くの官庁や大企業の取り組みが失敗に終わったのに、一人の不良青年が作った2ちゃんねるが、これほど多くのユーザーをひきつけている事実は、失敗した大事業の関係者たちはもう一度考えて見るべき
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■マスコミの誇大なあおりにだまされてはいけない
- 治安が悪化して犯罪が増えている、とマスコミは煽るが実態はそうではない
- 統計上の犯罪の数は増えているが、その最大の原因は自転車の防犯登録によって、自転車泥棒を犯罪統計に入れるようになったことや、警察が犯罪被害の届出を受理s内「前裁き」がへったことなど、犯罪の「認知率」が上がったためで、こうした効果を除くと犯罪はほとんど増えていない
- さらに、殺人や強盗といった凶悪犯を見れば、戦後一貫して減っておりピーク時の1950年代の1/3以下になっている
- また検挙率が下がったというマスコミもあるが、これも母集団が増加したことと、軽微な犯罪や余罪の追及に要因をさかなくなったことでほぼ説明がつく
- また、いじめが社会問題化している、というトーンもおかしい
- 子供の自殺は70~80年代がピークで、このころも「いじめ」が最大の原因として騒がれた
- 現在、自殺件数はピーク時の半分であり、いじめが原因と見られるものも当時は毎年10件くらいと、現在の6件より多かった
- そもそも年間で6とか10とかいう数字からして、「稀有」な事件というべきで社会問題として取り上げる問題ではない
- うつ病で年間1万人以上自殺しているのは取り上げず、いじめや極悪犯罪など、耳目を集めやすいニュースを誇大に取り上げることで視聴率を上げようとしているだけである
- 付け加えれば、ごみ焼却炉から出るダイオキシンがワイドショーで一時期頻繁に取り上げられたが、これらの寿命への影響は1.3日であり、喫煙の10年以上、また受動喫煙の120に比べればはるかに影響は軽い・・・・ダイオキシンを騒ぐのならタバコを全面禁止にするキャンペーンをはればいい
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■NHKが数年前に行ったブラインドテストでは、ハイビジョンと通常放送の違いを見分けられる視聴者はほとんど居なかった
- はっきり差が出るのは色温度とコントラストで解像度は要素中もっとも最下位だった
- またたくさんのチャンネルでいろいろな番組が見たい、という要望は高かったもののいい画質でみたい、という要望もこれまた最下位だった
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■日本人は貧乏になってきた
- 1993年に日本の一人当たりGDPは3.50万ドルで世界一位だった
- 2005年には3.56万ドルでOECD諸国30カ国中14位に落ちた
- 最近の1$=120円前後という為替レートは購買力平価と見合う水準であるから、円が過小評価されているわけではない
- 1990年時点を基点として日本経済が年率2%(先進国の平均成長率)で伸びた場合と比較すると、現実のGDPはその90%程度でしかない
- 格差がどうこう言う前に、富が一割なくなったということなのだ
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■梶=深尾論文によれば、退出した企業のTFPは生き残った企業よりも高い
- TFP=全要素生産性とは、労働と資本の生産性をあわせた概念で産出量=GDPの成長率あら労働・資本投入量の増加率を引いたもの
- TFPは技術革新以外に、リストラによる労働生産性の向上や、効率の悪い企業からよい企業へ生産資源が移行することでも向上する
- 梶=深尾論文によれば、本来経営破たんすべきゾンビ企業が追い貸しで延命させる一方、資金調達の困難な新しい企業が成長できずに廃業することによって日本経済全体のTFPは大きく低下してしまっている・・・・つまり新陳代謝の低さが、長期不況の大きな原因だとしている
- これはほかの実証研究でも確認されている
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■格差は広がっていない
- ジニ係数が若干上がっているのは、もともと所得格差の大きい高齢者世帯の比率があがったことと、所得の少ない単身世帯が増えたことにある
- 小泉政権の市場原理主義により格差が拡大した、という分析は数値からは読み取れない
- 不平等度が上がったのは90年代の長期不況の時期で、景気が回復した2000年以降はまた平等化している
- したがって「日本が世界一の格差社会になった」という国会の小沢氏の発言はナンセンスである
- ただし、懸念される問題はある・・・それは若年層(18~25歳)の貧困率の向上である
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■弱者救済は気をつけないと新たな弱者を生む
- 弱者救済を主張する人の多くは、今雇用されている人の待遇だけを問題にし、労働市場から排除されている本当の弱者が視野に入っていない
- たとえばタクシーの規制緩和で運転手の労働条件が悪化したと批判されるが、規制緩和以後、全国で1.7万台のタクシーが増えており、一台のタクシーを二人で乗務するとすると3万人以上の雇用が創出されたことになる・・・この間、年収は8%ほど低下しているが収入ゼロだったかも知れない人が3万人も年収を得られるようになっているわけで、これを格差拡大といって非難するのは既得権益を守ろうとする労働組合側の見方である
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■市場メカニズムを無視した規制強化は、一見いいことをしているように見えるが回りまわって格差を拡大してしまう
- 経済学では雇用は需要と供給のバランスで決まる・・・こういう単純なことを理解できないやからが多すぎる
- 賃金を市場で決定される水準よりも高い水準に規制すると、既に雇用されている人の賃金は上がるが、労働需要は減るので超過供給=失業が生じる
- たとえば借地借家法で店子の権利を強く保護すると、弱い立場の店子が助かるように思える・・・・しかし実際にどういうことになるかというと家主は明け渡しを求めても店子が立ち退かないので、借家の供給が全体としては減少し、結果として需給のアンバランスから全体の家賃は上昇してしまう
- また、サラ金の上限金利を引き下げると、借金を抱えている人は一見助かるように見える・・・・消費者金融の債務者は大手五社で約一千万人いて、このうちの91%が20%以上の金利で借りている・・・・業界全体では債務者はこの1.5倍くらいだろうと想定されているが、中小の金利はほとんどが20%以上だから、上限金利が20%に規制されると1400万人は市場から締め出されることになる・・・・こうして締め出された人たちは、結局は闇金融に走らざるを得ず、さらに悲劇的な結末を迎えることになる
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■福祉国家と市場原理主義を対立概念として捉え、小さな政府を批判する図式は不毛
- 格差問題は、決まったパイをいかに公平に分配するかという問題として捉えるのは誤り
- 景気回復によって新卒採用の数がバブル期なみになったように、経済成長によってパイが大きくなれば、誰もが利益を得ることが出来る
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■何かが自由財になったように見えると、新たな財がボトルネックになる・・・この新たな財の希少性がビジネスの鍵になる
- 資本主義社会の前提は、資本が希少で労働は過剰だということ・・・・工場を建てて多くの労働者を集める資金をもっているのは限られた資本家だから、資本の希少性の価格として利潤が生まれる・・・これは普通の製造業では今も正しいが、情報の生産については状況が違う
- ムーアの法則によって1960年代から今日までに計算能力の価格は一億分の一になった・・・これは建設に100億円かかっていた工場が100円でできるようになったということだから、こうなると工場を作って労働者を集めるよりも、労働者が各自に工場を持って生産するほうが効率がよい、ということになり、それが現実になった
- つまり、昔はボトルネックは工場だったのだが、今のボトルネックは工場を扱う各人の時間になる・・・・そしてこの資源=ユーザーの時間を効率的に配分するテクノロジーが重要になる・・・膨大な情報の中からコンテンツを見つけ出して、希少な時間をひきつける権利=広告に新たなビジネスチャンスが生まれる
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■著作権保護期間の延長は国益にかなわない
- 70年が著作権保護の国際的なスタンダードだから、それに順ずるのが国益にかなう、という主張は論理的に間違っている
- 国際著作権条約では、保護期間50年の国の著作物が70年の国に輸出されても50年しか守られない一方、70年の国の著作物が50年の国に輸入されても50年しか守られない
- 日本において、著作物は輸入超過なので日本で著作権保護を20年延長して得られる国外での著作権収入よりも、輸入した著作物を国内で自由に複製できなくなることでの損失の方がはるかに大きい
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■日本のコンテンツ産業の問題は、法的なものではなく、分配の問題である・・・そのためにはとにかくビジネスでWin-Winに関係者がなれるモデルを築くことが必要
- 著作者の利益が法的に保護されていない、ということが問題の本質ではなく、利益がクリエイターに正当に分配されないことが問題
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■ライブドア事件の量刑の重さは不可解
- 主な起訴事実は50億円強の粉飾決算だった
- しかしカネボウは総額2000億円の粉飾を行っており、これと比べて量刑が不当に重いように思う
- 180億円の利益を水増しした日興コーディアルも上場維持されたし、1990年代には日本の銀行のほとんどが不良債権を分割償却するという粉飾決算を行っていたが、刑事事件になったのは日債銀・長銀といった破綻銀行だけである
- 堀江貴文被告は第一審で懲役2年6ヶ月の実刑判決を受けた・・・エンロンやワールドコムでは20年以上だったのに甘い、といったニュアンスでグローバルスタンダード論を振り回すやからも居るが、これも間違いで、こういう厳罰はアメリカだけの特殊な現象え、イギリスではベアリング証券をつぶしたニック・リーソンも4年で出所している
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■インサイダー規制は、サッカーのオフサイドのようなもの
- それ自体がルール違反ではないが、それを許すとゲームがつまらなくなる=資本家が集まらなくなる
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■霞ヶ関の最大の罪は優秀な人材をロックインしていること
- 社会を動かすのは人口の数%のエリートで、そういう人材がどれくらい戦略部門にいるかで国力は決まる
- 霞ヶ関は、戦後しばらくは日本最大の戦略部門だったがいまはお荷物になった
- 重要なのは老人の天下りにヤーヤー文句を言うことではなく、未来のある人材を霞ヶ関から脱出させてチャレンジャーを育てる人的資源の再配分である
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