Sunday, February 15, 2009

モハメドアリとマイクタイソン

モハメドアリとマイクタイソンは、双方ともに米国のボクシングヘビー級のチャンピオンですが、以前から、この両者が人に与える影響の質には大きな違いがあると、何となく感じていました。

その、質的な差が、最近少しずつわかり始めてきました。

乱暴な言い方ですが、社会のシステムに対して大きな疑問を抱きながら、システム自体を利用したのがアリで、システムそのものの善悪を問うことなく、そのシステムに完全に耽溺して最適化したのがタイソンだと、いう気がしています。

モハメドアリという名は、よく知られていることですが、本名ではありません。もともとはカシアスクレイ、という名で、ローマオリンピックでもその名で金メダルをもらっています。マルコムリトルが、そもそも名字は奴隷時代の名残でついているものであり、従って自分の出自はわからないのだ、という意義を込めて名字をXとし、マルコムXと名乗ったのと同様に、奴隷時代につけられた名前を引きずることを厭って、宗旨替えとともに教祖の名を自分の名前にしたのだと、聞いています。

僕はアリについてはよく知りませんが、決定的なエピソードだと思うのはベトナム戦争の兵役を忌避したことです。この点は、当時トップスターだったエルビスプレスリーが、お国の命ずるままに兵役に服したのとは、大きく異なる点です。もちろん、プロパガンダ的な観点からエルビスも危険な任務には服さず、後方支援的な業務を短期間努めて兵役を終えました。トップのポップスターが、前線でゲリラに殺さて反戦ムードが一気に高まることを国防省や政府が恐れたことは、容易に想像できます。そして、恐らくアリのケースでも、裏側での政府とのさやあてはあったことでしょう。兵役なんて形だけのもので、君には危険な任務は担当させない。適当につとめてくれれば、それでいいんだ、と言い寄る国防省の声があったことは容易に想像できます。それでも、彼は断固として徴兵義務を拒みました。理由は、「ベトナム人を殺せ、と言われて、じゃあ殺します、という理由が自分にはない。自分は何らベトナム人に恨みがない」という、恐ろしくも単純な理由でした。そして、この兵役忌避のために、ヘビー級チャンピオンという資格を剥奪され、以後、キャリアの絶頂期において無期限のボクシング試合停止、という処分を受けます。第二次大戦中の日本でいう「非国民」ということでしょう。

僕の父方の祖父は、帝国陸軍の将官でマニラで戦死しています。先日訪れた福沢諭吉展でも、やはり1940年代の塾生の多くが、神風特攻隊で死んでいること、そしてその多くが、出撃直前に恩師や家族に手紙を認めており、その人生には一片の悔いもないことと、日本のその後、家族のその後を、生きてその運命を肩に背負うことになった人に、くれぐれもよろしく頼む、という旨が書かれていました。

中でもよく覚えているのが、特攻隊の出撃前夜に、経済学部の学生が認めた手紙で、その最後には「明日、一人のリベラリストが、この世から消えることになります。しかし、その本人には一片の迷いも、悔いもないこと。そして、このような終焉を迎えることに100%満足していることを、ここに書き残しておきたいと思います」という言葉が忘れられません。

学生時代、友人が自宅に訪れて夕食をともにすると、必ず面食らって食後に僕に聞いてくることがありました。曰く「お前のうちって、毎晩あんな風に激烈に議論するの?」。

僕は学生時代からアリの考え方に共鳴し、いくら国事とは言え、納得できない戦争に命を捧げることはできない、というスタンスの持ち主でした。一方で両親、特に父は、その父を戦争でなくしたこともあるかと思いますが、政治はそもそも100%の納得よりも国の絶対的な利益を優先するもので、それに納得できるかできないかで、それに協力するかしないか、という考え方自体を否定する、というものでした。とはいいつつも、その父でさえ「100%○○だ、という意見があったら、だいたい間違っていると考えればいい。世の中は0でも1でもないし、右でも左でもない。そんな単純なことを言うやつは頭のできが悪いんだよ。周ちゃんは、きっとそういうのとは仲間になってはいけない」といいながらダンテ、シェークスピア、プラトン、屈原の言葉を引用しながら諭すのが、食後のお茶を飲んでいる時間の定番でした。

正直言って、教養レベルでも頭脳のクロックスピードでもかなわない父と議論すると、常に劣勢になり、最後は論破されるというオチでしたが、いつも遊びにくる友人も、その議論の凄まじさに、辟易している感じでした。

まあそれはともかく、アリとタイソンの違いと考えると、「疑いを持つことの大事さ」ということを感じてしまうのです。

これは、右派、左派という問題ではなく、テーゼに対して、常に斜めに見ること、客観的であることの大事さにつながると思うのです。

アリという人は、決して教養のある人ではなかったと思いますが、個人の思うところに即して自分の行動を決め、それを一貫させたという点において見習うべきものがあると思います。これは、70年代当時失われつつあったアメリカ的な美徳であったのだと思います。対して、タイソンは、恐らくボクシングの技術・・・つまり相手を叩きのめすという機械的な技術に関しては、そおらくアリより上だったのではないかと思いますが、自分がよってたつシステムや社会の仕組みについて疑いを差し挟むということを、まったくしなかった人だったと思います。

ルールはこうこう、従ってこれをうまくやれば、莫大な金が入ってくる。というインプットに従って、自分を仕組みに最適化し、マシーンのように鍛え上げた、という感じです。そしてその先に何があるかは、彼の問いのリストの中にはありません。100億円近いファイトマネーを手にして、その先に何があるのか?

ルールに則って戦って莫大な金を得ることと、ルールそのものの問題を指摘して、そのルールの中で戦いつつルールの是正を試みること。後者は遥かに大変です。

どこが大変かというと、ルールを否定する人は殆どの場合社会的には敗者なんですよね。あ、この場合の敗者というのはもっと広義で、例えば論文を学会に出すだけの大学教授や、お金はあるけど実際に社会を動かすだけの権力や影響力を持っていない音楽家やアーティストも含めています。

数年前に一度、歴史上の革命がどういうカロリーの上昇で発生したかを勉強してみたことがあって、だいたい体制の中枢から革命を指向する人が出てこないと、難しいんじゃないか、という思いに至ったことがあります。フランス革命のロベスピエールや明治維新の勝海舟、ソ連解体時のゴルバチョフは皆、体制側の人間です。

これだけ明白になっているにも関わらず、エスタブリッシュメントの仲間に入らないで社会を変えられると思っている存在というのは、極論すれば唾棄すべきだと思っています。僕は社会はもっとよくできると思っていますが、であればこそ、社会の中枢に近づくことが大事なのではないかと思っています。一方で周りの人が、社会システムそのものに最適化するゲームに身をやつしているので、それはそれで「くだらないな」と思いながら同じゲームを戦って、同じ点数を上げなければいけないという、非常につらい道なのですが、まあそう考えているんですよね。


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