Tuesday, February 17, 2009

歴史家の自画像 阿部謹也


1:時代が違えば人間も違う
:時代劇に出てくる人間を江戸時代の人間と思うのは間違い
:時代が違うと考えられない行動や考え方をする人間がいる
:読者は時代劇を見て、江度時代の社会に自分を投影している

2:ラテラノの公会議は世界史的な転換点
:告白をシステム化して近代的自我の成立を促した
:フーコーもラテラノの公会議を非常に重要視しているが、なぜか余り他の人は触れていない

3:カタリ派の人は死を恐れない
:彼らは現在が地獄だという
:完全者になって最後に祝福を受ける、というのが理想

4:ものを考えるのは瞬間
:一時間考えるなんてできない
:本を読むのは大変・・・自分とは体質の違う相手の考えを理解することで抵抗がある
:わかるということはうれしいことだが、それは考えるということとは違う
:読みながら、「ハッ」と思ったことをノートする・・・その一瞬が考えている、ということ
:その瞬間の密度が薄れてきたら、学者としてはもうだめだと思うんです
:そういう時期が、60代になって見えてきました

5:仕事は常に最後だとおもってやる
:いつも最後だと思ってやっています
:そうじゃないとできないですよ、次があるなんて思ったら、そこでやらなくなってしまいます
:日本の歴史研究者で、本当に好きでやっている人って少ない
:好きさ、の度合いが浅い人が多くて、やっぱり商売にいっちゃいますね
:本当に好きな人は、やっぱり時間をかけて研究します
:そういう人は、本当に少ない

6:宗教にも文化レベルのものと文明レベルのものがある
:イワシの頭も信心から、は文化の段階の宗教
:こういう迷信的なものはもういくらでもある
:三大宗教は、こういった宗教とどこが違うかというと単純で経典がある
:経典があるから伝達が可能、解釈が可能で伝わっていく
:経典がない宗教は人と一緒に滅んでしまう

7:習慣に根付いた犯罪というのもある
:日本には贈与が根付いており、人間関係の基本になっている
:政治の次元だけこれをきれいにしろ、といって無理
:日常生活の革新ということだから、そういう意味で汚職の追放というのは簡単ではない
:お中元/お歳暮はいっさい禁止、というくらいにしないと無理だろう

8:文明はよそ者をいれるけど文化はいれない
:高村光太郎はパリで阻害された
:漱石はロンドンで阻害された
:外国人が日本にきて「源氏物語を研究しています」と言うと、それは大変ですね、とか答えるが心中では「おまえにわかるものか」と思っている

9:文化が文明になるには他民族を傘下におかないとだめ
:日本は他民族を支配した経験がない
:朝鮮や台湾は多少支配を及ぼしたけど、日本語とか日本文化を押し付けて失敗した
:本当に、永続的に支配しようと思ったら支配するものは支配される者から取り込まなければだめ
:支配する者が変質することで支配は存続する
:朝鮮人の人間関係や、台湾人の人間関係を取り込むことで日本人自身がかわることによって日本文化は日本文明になりうるわけですが、そうではなく、官幣大社などを強制したりして日本の神様を押し付けた
:ローマは異民族支配を通じて分明になった
:近代以降ではアメリカがそれにあたる・・・なぜ可能だったかというと寄せ集めだから

10:現代人は世界を自分に投影する、中世人は自分を世界に投影する
:典型的なのは星座

11:文明の担い手と文化の担い手は異なる
:文化の担い手が文明の担い手になったときには、だいたい文化の担い手からは足をあらっている

日本の行政はすばらしい?

実はあまり知られていないのですが、人間ドック、というシステムは日本にしかありません。従って、人間ドック、という言葉自体も日本にしかない。外国人に向かって人間ドックをいくら訳しても意味は通じません。そもそも仕組みとして存在していないのです。

この仕組みは、高度経済成長時代に、船が一年の航海の疲れを休めつつ、船体についた藤壷やさびを落として新しい航海に出かけられるのと同じ様に、働き盛りの人々が、その体を隅々まで検査するドックの様な仕組みが必要であるという、一種の国策から生まれました。行政サイドから見てみれば国民の生産力を最大化するための一つの方策、ということであったかも知りませんが、動機はともかく、制度としては非常に優れていると思うのです。

この検査が、健康保険に入ってさえいれば3万円から5万円程度で受けられることを、日本人のほとんどが何とも思っていない・・・むしろ「高いな〜」と思っているようなのですが、例えば米国で同様の精密検査を受けようとすると1万ドル以上かかると聞いたら、どのように思われるでしょうか。事実上米国の健康保険制度は破綻しており、我が国でも近い将来米国の様な状況に陥ることが懸念されていますが、ベースとして健康保険関連で国民が享受している行政サービスのレベルが、そもそも米国は桁違いに低いことをまずは知っておくべきではないでしょうか。

日本の政治や行政は、いわゆる「進歩系マスコミ」(苦笑・・・)と、それに踊らされやすい人たちのおかげで実態以上にひどい状態と考えられていますが、様々な社会的な指標、つまり乳児死亡率や、一人当たりの医療費、犯罪率、文盲率、一人当たり生産力といった数値をみてみれば、様々な問題を抱えいたとしても、まずは世界トップレベルのバランスを維持した、たぐいまれに優れた社会であることを認識しておくべきです。

かといって問題がまったくないわけでは、もちろんありません。個別個別に見ていけば、たくさんの課題はあるでしょうが、かといって良い点をすべて無視していい訳ではありません。他国に範を取るとしても、その国の良い点悪い点があって、しかもそれらが表裏一体をなしていることを、我々はゆめゆめ忘れてはならないと思います。

と書いたとたんに中川さんがヘベレケ会見の責任を取って辞任・・・・うーn。
ある意味、政治家がここまでダメなのにちゃんと機能している日本って特殊な国なのかも知れません。

インターネット廃止論

インターネットがあることで、誰か幸せになった人っているのでしょうか?むしろ不幸になった人の方が多いんじゃないでしょうか。

インターネットが出てきた当時、世界的な草の根コミュニケーションが活発化されて紛争や戦争の抑止になる、という説が出てきましたが、そういう意見は社会というものを非常に甘く見ている様に思います。

つながりたい人とだけつながることが許される社会というのは非常に危険だと僕は思っています。それは、多数のカルト教団が併存している社会と同じですから。

社会学者のデュルケムは自殺を4つに類型化した上で、成熟社会においては絶望でも自己犠牲でもない、連帯の喪失による孤独感による自殺=アノミーが増加することを予言しました。

インターネットは、成熟社会において、それがなければ孤独感に苛まれながら放浪するだけだった人に、寄る辺を与えているっていうことなのかも知れません。

Monday, February 16, 2009

自転車




昨年の秋頃に購入した自転車です。

イタリアのデローザという工房製です。デローザは1970年代にツールドフランスを5連覇した伝説のチャンピオン、エディ・メルクスの愛機としても有名でした。

当時のデローザの価格は今の値段で700〜1,000万円程度で、現在で言うポルシェとほぼ同じ価格でした。今、デローザは、まあ大型のハイビジョンテレビと同じくらいで買えるようになったのだから、僕らは円の強い、いい時代に生きているわけですね。

本格的なロードレーサーは初めてだったので、氷の上を進むような無音、無抵抗のスムーズな橋に、最初は「おおお!」と感動しました。

現在のロードレーサーはカーボンが主流になってしまいましたが比強度の関係からカーボンはどうしてもフレームが太くなってしまいます。一方で僕のデローザは伝統的な鉄=クロモリのフレームで、このフレームを愛する人はその細さ、エレガントなたたずまいに、やられてしまうんですよね。乗るのも大好きですが、パイプをふかしつつウイスキーをなめつつ、自転車を眺める時間が大好きです。


Sunday, February 15, 2009

モハメドアリとマイクタイソン

モハメドアリとマイクタイソンは、双方ともに米国のボクシングヘビー級のチャンピオンですが、以前から、この両者が人に与える影響の質には大きな違いがあると、何となく感じていました。

その、質的な差が、最近少しずつわかり始めてきました。

乱暴な言い方ですが、社会のシステムに対して大きな疑問を抱きながら、システム自体を利用したのがアリで、システムそのものの善悪を問うことなく、そのシステムに完全に耽溺して最適化したのがタイソンだと、いう気がしています。

モハメドアリという名は、よく知られていることですが、本名ではありません。もともとはカシアスクレイ、という名で、ローマオリンピックでもその名で金メダルをもらっています。マルコムリトルが、そもそも名字は奴隷時代の名残でついているものであり、従って自分の出自はわからないのだ、という意義を込めて名字をXとし、マルコムXと名乗ったのと同様に、奴隷時代につけられた名前を引きずることを厭って、宗旨替えとともに教祖の名を自分の名前にしたのだと、聞いています。

僕はアリについてはよく知りませんが、決定的なエピソードだと思うのはベトナム戦争の兵役を忌避したことです。この点は、当時トップスターだったエルビスプレスリーが、お国の命ずるままに兵役に服したのとは、大きく異なる点です。もちろん、プロパガンダ的な観点からエルビスも危険な任務には服さず、後方支援的な業務を短期間努めて兵役を終えました。トップのポップスターが、前線でゲリラに殺さて反戦ムードが一気に高まることを国防省や政府が恐れたことは、容易に想像できます。そして、恐らくアリのケースでも、裏側での政府とのさやあてはあったことでしょう。兵役なんて形だけのもので、君には危険な任務は担当させない。適当につとめてくれれば、それでいいんだ、と言い寄る国防省の声があったことは容易に想像できます。それでも、彼は断固として徴兵義務を拒みました。理由は、「ベトナム人を殺せ、と言われて、じゃあ殺します、という理由が自分にはない。自分は何らベトナム人に恨みがない」という、恐ろしくも単純な理由でした。そして、この兵役忌避のために、ヘビー級チャンピオンという資格を剥奪され、以後、キャリアの絶頂期において無期限のボクシング試合停止、という処分を受けます。第二次大戦中の日本でいう「非国民」ということでしょう。

僕の父方の祖父は、帝国陸軍の将官でマニラで戦死しています。先日訪れた福沢諭吉展でも、やはり1940年代の塾生の多くが、神風特攻隊で死んでいること、そしてその多くが、出撃直前に恩師や家族に手紙を認めており、その人生には一片の悔いもないことと、日本のその後、家族のその後を、生きてその運命を肩に背負うことになった人に、くれぐれもよろしく頼む、という旨が書かれていました。

中でもよく覚えているのが、特攻隊の出撃前夜に、経済学部の学生が認めた手紙で、その最後には「明日、一人のリベラリストが、この世から消えることになります。しかし、その本人には一片の迷いも、悔いもないこと。そして、このような終焉を迎えることに100%満足していることを、ここに書き残しておきたいと思います」という言葉が忘れられません。

学生時代、友人が自宅に訪れて夕食をともにすると、必ず面食らって食後に僕に聞いてくることがありました。曰く「お前のうちって、毎晩あんな風に激烈に議論するの?」。

僕は学生時代からアリの考え方に共鳴し、いくら国事とは言え、納得できない戦争に命を捧げることはできない、というスタンスの持ち主でした。一方で両親、特に父は、その父を戦争でなくしたこともあるかと思いますが、政治はそもそも100%の納得よりも国の絶対的な利益を優先するもので、それに納得できるかできないかで、それに協力するかしないか、という考え方自体を否定する、というものでした。とはいいつつも、その父でさえ「100%○○だ、という意見があったら、だいたい間違っていると考えればいい。世の中は0でも1でもないし、右でも左でもない。そんな単純なことを言うやつは頭のできが悪いんだよ。周ちゃんは、きっとそういうのとは仲間になってはいけない」といいながらダンテ、シェークスピア、プラトン、屈原の言葉を引用しながら諭すのが、食後のお茶を飲んでいる時間の定番でした。

正直言って、教養レベルでも頭脳のクロックスピードでもかなわない父と議論すると、常に劣勢になり、最後は論破されるというオチでしたが、いつも遊びにくる友人も、その議論の凄まじさに、辟易している感じでした。

まあそれはともかく、アリとタイソンの違いと考えると、「疑いを持つことの大事さ」ということを感じてしまうのです。

これは、右派、左派という問題ではなく、テーゼに対して、常に斜めに見ること、客観的であることの大事さにつながると思うのです。

アリという人は、決して教養のある人ではなかったと思いますが、個人の思うところに即して自分の行動を決め、それを一貫させたという点において見習うべきものがあると思います。これは、70年代当時失われつつあったアメリカ的な美徳であったのだと思います。対して、タイソンは、恐らくボクシングの技術・・・つまり相手を叩きのめすという機械的な技術に関しては、そおらくアリより上だったのではないかと思いますが、自分がよってたつシステムや社会の仕組みについて疑いを差し挟むということを、まったくしなかった人だったと思います。

ルールはこうこう、従ってこれをうまくやれば、莫大な金が入ってくる。というインプットに従って、自分を仕組みに最適化し、マシーンのように鍛え上げた、という感じです。そしてその先に何があるかは、彼の問いのリストの中にはありません。100億円近いファイトマネーを手にして、その先に何があるのか?

ルールに則って戦って莫大な金を得ることと、ルールそのものの問題を指摘して、そのルールの中で戦いつつルールの是正を試みること。後者は遥かに大変です。

どこが大変かというと、ルールを否定する人は殆どの場合社会的には敗者なんですよね。あ、この場合の敗者というのはもっと広義で、例えば論文を学会に出すだけの大学教授や、お金はあるけど実際に社会を動かすだけの権力や影響力を持っていない音楽家やアーティストも含めています。

数年前に一度、歴史上の革命がどういうカロリーの上昇で発生したかを勉強してみたことがあって、だいたい体制の中枢から革命を指向する人が出てこないと、難しいんじゃないか、という思いに至ったことがあります。フランス革命のロベスピエールや明治維新の勝海舟、ソ連解体時のゴルバチョフは皆、体制側の人間です。

これだけ明白になっているにも関わらず、エスタブリッシュメントの仲間に入らないで社会を変えられると思っている存在というのは、極論すれば唾棄すべきだと思っています。僕は社会はもっとよくできると思っていますが、であればこそ、社会の中枢に近づくことが大事なのではないかと思っています。一方で周りの人が、社会システムそのものに最適化するゲームに身をやつしているので、それはそれで「くだらないな」と思いながら同じゲームを戦って、同じ点数を上げなければいけないという、非常につらい道なのですが、まあそう考えているんですよね。


ナイロンバッグ


以前からバカにしていたナイロンバッグをついに購入しました。

最近、クライアント先に常駐のプロジェクトにアサインされたのですが、電車での移動距離が長く、これまで愛用していたゼロハリバートンでは肉体的な苦痛が耐え難くなり、親友の勧めもあってついに購入に踏み切りました。

用具類一式を入れてみての感想は・・・軽い!これは確かにベラボーな軽さです。
もう他のバッグには戻れないのかも・・・

でも、こうやって食わず嫌いで過ごしていることが他の案件に関しても多いのかも。偏屈なのも考えものですね。

Thursday, February 12, 2009

燃えよ剣

燃えよ剣

一言で言うと新撰組副長だった土方歳三の生涯をつづった本です。

一種、新撰組というベンチャーの創業者の物語という読み方も出来ます。

土方は一種の組織造り、組織運営の天才で読めば読むほど現代に生きていればきっとビジネスマンとして活躍しただろうな、という気がしてきます。

以前に、大好きだった塾の国語の先生に言われたのですが、新撰組というのは世界史的に見ても稀なほどの純度の高い剣客集団で、その規模を考えると実質的には史上最強だっただろうとのこと。

それだけのパフォーマンスを組織として維持するためにどのように人を集め、教育し、規律を持たせるか。ここに単なる歴史小説として楽しめる、という以上の学びがあり、つまり色々とビジネス上のヒントがあります。

ただし、個人的にアスピレーションを感じるかというと・・・・ちょっと違う。この本はもともと親友から読め、と言われたのがきっかけだったのですが、その友人が感じたような憧れ・・・本人は「滅びの美学」と言っていました・・・、僕自身はあまり感じませんでした。

むしろ、イライラしたという感じでしょうか。

この人は小さいと思う。

歴史的な視点と世界地理的な視点の2つが全く欠けていて固陋に武士道にこだわり、侵略を目論む西欧列国に対し、日本国全体の足並みを揃えていこうという国事の足を引っ張って引っ張って引っ張りまくった団体の張本人が新選組で、その親玉が土方です。

加えて、一種の殺人嗜好症のようなところもある。新撰組副長時代の京都から東北、最後の五稜郭まで含め、とにかく斬り、裂き、突いて血煙を浴び続けます。何故それが可能だったかというともちろん本人の剣術、軍略センスもあると思うのだが何より幕府から「守護」のオーソライズを得たことも大きいのでは。

つまり土方という人は局地戦での軍略という点においては戦略の天才なのですが、国家間での争い、という点については全く戦略的視点が無い人のように見えるんですね。これに軍事力だけは突出して備わっているわけだから政治的には極めて扱いの難しい人だっただろうと思います。

話の後半で、幕府に忠誠を誓って江戸城に居座ろうとする新撰組と土方に対して、それを疎ましく思う勝海舟が「甲州の城を落せ。落せたらそのまま甲州を差し上げる」として城から出陣させるクダリがあります。なけなしの軍資金を与えて京都から攻め上がる官軍の防衛となれ、ということなのだが、種明かしをすると無血開城を目論む勝海舟にとっては江戸城で殺人嗜好症でかつ薩長から蛇蝎のように嫌われている新撰組+土方を追い払うことが政治的な工作のためには都合がよかったということなのです。

やはりこういうところを読むと時代を読む目、大きな視点での戦略ということにかけてはとてもじゃないが土方は勝の足元に及ばないな~という気がします。

面白くて考えさせられた、良い本でした。