Wednesday, February 18, 2009

脳と日本人 松岡正剛+茂木健一郎


松岡正剛:
湯川さんから聞いた言葉で衝撃的だったのは、女の足の指を嘗める様に、自然の足の指を嘗める自然科学が必要なんや、というものだった。谷崎みたいなことですか、と聞いたら、そうや、あれや。あれを物理学にしたいんや、と言われた

茂木健一郎:
一方で、文系の学者たちは相も変わらず小さな部分問題を解いているだけで自分たちは立派だと思っている。彼らは自分をアカデミシャンだという言い方をよくするけれども、アカデミシャンという言葉が何を含意しているか?単に文献学、ないしは学問の業績を文脈へあてはめるというある種の訓練を受けているに過ぎない。そしてトレーニングに従い、そのルールに従ってやっているだけの話なのですね。ルールからはみだしたものには際物だとか、色物だとか、いい加減だと批判するわけですが、彼らのやっていることはわずかな部分問題を解いているにすぎない。そのことにまったく自己批判の視点がないのですね。そのことに僕はずっと苛立っているわけです。

無限はどこにある?至る所にあるよ。君がベッドから下りて部屋のドアにいくまでの軌跡の中に、既に無限の可能性がある。

こういった無限性が、その無限の豊穣さが生かされていない・・・同じことが既にタイプライターから始まっていて、記号化、シンボル化が持っている毒の様な者が、我々の体を変質させていることは、僕は間違いがないと思う

熊本にトンカラリンという不思議な遺跡がある。地下に四百数十メートル、人がやっと通れる様な溝がある。そこを這っていくと、まさに死と再生の追体験をします。本当に怖いのです。怖いと言っても調査はされているし、周りに人もいるのですが・・・彼岸をありありと体験します。

以前、スーザン・ソンタグを東京案内したときに、新宿駅で駅員がマイクでガンガン叫んでいるのを見て彼女が「何て言っているの?」と尋ねたので「電車が来るから白線の後ろに下がれ」と言っていると答えると、次にまた何と言っているのか、と聞くので「電車が参ります」と言っていると。今度は車内に入ると張り紙を指差して「これは何と書いてある」と聞く。「ドアに注意しろ」と書いてあると訳すと、ついに彼女は「こんな醜い街は有り得ない。言葉をこんな風に使うなんて信じられない」といって怒り始めた

松岡:
菩薩にひっかかっているんです。菩薩は悟りを開かない。如来にならない仏様なんです。自分ではゴールに行けるのにゴールの前で立ち止まって他人を待っているんです。

善悪の彼岸へ 宮内勝典


ジャングルの奥深くにコミュニティを形成し、最終的に916人の信者に青酸カリを飲ませて自身も自殺した人民寺院の教祖、ジム・ジョーンズは、少年期から異様なカリスマぶりを発揮し、自宅にある自室を教会として既に熱心な少年信者を集めていた

彼は異常な支配願望を持つと同時に、暗殺される、食事にガラス片が混じっている、といった統合失調症(以前の精神分裂病)に特有のパラノイア症状を持っていた。不思議なことに、このパラノイア症状が嵩じる時期は、本格的な教祖へと成長していく時期とオーバーラップしている。いや、むしろ、教祖の狂的な妄想が、そもそも教団の求心力だったのだろう。

教団は順調に成長したものの、ジム・ジョーンズの心は崩壊しつつあった。人民寺院での説教は、自分がいかにテクニシャンで精力絶倫で女性たちを満足させることができるか、というセックス談義に明け暮れる様になった。ハーレムの王の様に、若い女性信者を片っ端から愛人にする上、白人の男性信者まで犯した。

その上、信者には禁欲を強制し、夫婦を離婚させ、セックスパートナーを自らの意思で組み替えたりした。理由は明白で、あらゆる人間関係を破壊し、教祖と信者との一対一の関係に追いつめていくためである。それ以外の人間関係は、恋人や夫婦はおろか、親子でさえ認めない。

地下鉄サリン事件は許されることではない。ただ、この事件が自分たちとは全く無関係な気違いが起こした事件だとして、表面的に弾劾するだけのテレビのコメンテーターにも反発を感じる。わかりきった陳腐な正義をふりかざすだけで犯罪を生み出した要因となる闇の深部へ降りていこう姿勢は、皆無だった。

ただ一人、東大医学部の教え子からオウム信者を出してしまったということを恥じているのか、痛ましいほどに打ちひしがれている養老孟司氏の姿に感銘を受けた。それこそが、まっとうな大人の姿ではないのか?あの教団を生み出し、信者を生み出したのは他ならぬ我々の社会なのだ。

オウム・シスターズの舞を見たとき、あまりの下手さに驚いた。あっけにとられながらも、これは見過ごせない、大事な何かを示唆していると感じた。オウムの記者会見のときに背後に映し出された曼荼羅の、あまりの稚拙さにも同様の何かを感じる。

それだけではない。私の自宅に送られてくるオウムの新聞・パンフレット・出版物など、いまどきこんなにセンスの悪い印刷物があるのかと首を傾げたくなるほどひどい出来映えである。ビデオもひどい。サリン工場をカムフラージュするために作られた発泡スチロールのシヴァ神の像も、まったく唖然とさせられる代物だった。私はただ単に、教祖が弱視だから視覚表現に重きを置いていないのだろうな、と思っていたのだが、考えてみると、総選挙に立候補したときの「ショーコーショーコーショコショコショーコー」という教祖自作の歌も噴飯ものだった。つまり、オウム真理教の作り出す芸術表現は、どれもきわめて低レベルなのである。これは何か重要な点を示唆していると思う。

麻原彰晃の著作、オウム真理教の表現に通底している特徴を端的に言えば「美の欠如」ということにつきる。こうした美意識の欠如は、オウムの教義そのものに深い陰を落としている。偏差値教育を受け、醜悪な家具と街に育ったエリートが、あれほど美意識や神性の欠落したオウムのコミュニケーションに接触し、何らの違和感もなく階層性ばかり強調する一見論理的な教義に同調してしまった。

新しい教団は必ず家族と敵対する。「イエスの方舟」事件がそうだった。若い女性たちが次々に家出して小さな教団で共同生活を営む様になった。親たちは娘を返せ、と叫び続けたが聞き入れられなかった。教団と言っても、東京郊外の空き地に立てたテントやバスが教会であり、そのバスの屋根の上には小型の寝室を取り付けて、ごくささやかな原始共同生活を営んでいたに過ぎない。「千石イエス」と名乗る教祖も、正式の司祭ではなく、刃物研ぎの行商をするかたわら布教活動をしていた。キリスト教の伝統からも逸脱しており、これがさらに疑惑をあおった。そしてマスメディアや家族の追求が激しくなった1978年、「イエスの方舟」の信者たち26人はこつ然と姿を消した。

人民寺院と同様のプロセスと結末を迎えたカルト教団としては「太陽寺院」がある。太陽寺院の集団自殺については辻田美が「カルト教団 太陽寺院事件」(みすず書房)に詳細な記録がある。

太陽寺院もそうであるが、カルト教団に共通しているのは「名前を変える」ことである。オウム真理教でも「ホーリーネーム」と称して信者には別の名前を与えた。名前を変えさせることでアイデンティティを破壊し、過去の世界に戻る橋を打ち壊すのである。

確かに、大悲心、つまり他人の利益を願う心がありさえすれば、殺生そのものも罪悪とはならないという「条件付き殺害肯定論」は、大乗仏教の戒律観の一形態として存在する。これがポアの論理である。この部分は、中村雄二郎著「日本文化における罪と罰」(新潮社)に、よく噛み砕いた形で引用されている。




Tuesday, February 17, 2009

歴史上、最高の一年はいつか?

神様が出てきて、「理想的だったと思える一年を、どの時代でもいいから言ってご覧なさい。世界が、その一年を永久に繰り返す様にしてあげる」、と言ったとする。

どう答えるだろうか。

進歩史観的には、いまだかつてない最高の社会が、未来にあると思ってこの問いに答えることを拒むべきなのかも知れない。

日本だけでみれば、空前絶後の好景気に湧いた1989年が理想??いやいや、犯罪率も低く、循環型社会だった元禄期じゃないのか?いっそ日本的文化が最高に花開いた平安期??

でもそのとき世界がどうだったのか?世界史が100点満点中3点だった僕にはよくわからない。

うーん・・・

歴史家の自画像 阿部謹也


1:時代が違えば人間も違う
:時代劇に出てくる人間を江戸時代の人間と思うのは間違い
:時代が違うと考えられない行動や考え方をする人間がいる
:読者は時代劇を見て、江度時代の社会に自分を投影している

2:ラテラノの公会議は世界史的な転換点
:告白をシステム化して近代的自我の成立を促した
:フーコーもラテラノの公会議を非常に重要視しているが、なぜか余り他の人は触れていない

3:カタリ派の人は死を恐れない
:彼らは現在が地獄だという
:完全者になって最後に祝福を受ける、というのが理想

4:ものを考えるのは瞬間
:一時間考えるなんてできない
:本を読むのは大変・・・自分とは体質の違う相手の考えを理解することで抵抗がある
:わかるということはうれしいことだが、それは考えるということとは違う
:読みながら、「ハッ」と思ったことをノートする・・・その一瞬が考えている、ということ
:その瞬間の密度が薄れてきたら、学者としてはもうだめだと思うんです
:そういう時期が、60代になって見えてきました

5:仕事は常に最後だとおもってやる
:いつも最後だと思ってやっています
:そうじゃないとできないですよ、次があるなんて思ったら、そこでやらなくなってしまいます
:日本の歴史研究者で、本当に好きでやっている人って少ない
:好きさ、の度合いが浅い人が多くて、やっぱり商売にいっちゃいますね
:本当に好きな人は、やっぱり時間をかけて研究します
:そういう人は、本当に少ない

6:宗教にも文化レベルのものと文明レベルのものがある
:イワシの頭も信心から、は文化の段階の宗教
:こういう迷信的なものはもういくらでもある
:三大宗教は、こういった宗教とどこが違うかというと単純で経典がある
:経典があるから伝達が可能、解釈が可能で伝わっていく
:経典がない宗教は人と一緒に滅んでしまう

7:習慣に根付いた犯罪というのもある
:日本には贈与が根付いており、人間関係の基本になっている
:政治の次元だけこれをきれいにしろ、といって無理
:日常生活の革新ということだから、そういう意味で汚職の追放というのは簡単ではない
:お中元/お歳暮はいっさい禁止、というくらいにしないと無理だろう

8:文明はよそ者をいれるけど文化はいれない
:高村光太郎はパリで阻害された
:漱石はロンドンで阻害された
:外国人が日本にきて「源氏物語を研究しています」と言うと、それは大変ですね、とか答えるが心中では「おまえにわかるものか」と思っている

9:文化が文明になるには他民族を傘下におかないとだめ
:日本は他民族を支配した経験がない
:朝鮮や台湾は多少支配を及ぼしたけど、日本語とか日本文化を押し付けて失敗した
:本当に、永続的に支配しようと思ったら支配するものは支配される者から取り込まなければだめ
:支配する者が変質することで支配は存続する
:朝鮮人の人間関係や、台湾人の人間関係を取り込むことで日本人自身がかわることによって日本文化は日本文明になりうるわけですが、そうではなく、官幣大社などを強制したりして日本の神様を押し付けた
:ローマは異民族支配を通じて分明になった
:近代以降ではアメリカがそれにあたる・・・なぜ可能だったかというと寄せ集めだから

10:現代人は世界を自分に投影する、中世人は自分を世界に投影する
:典型的なのは星座

11:文明の担い手と文化の担い手は異なる
:文化の担い手が文明の担い手になったときには、だいたい文化の担い手からは足をあらっている

日本の行政はすばらしい?

実はあまり知られていないのですが、人間ドック、というシステムは日本にしかありません。従って、人間ドック、という言葉自体も日本にしかない。外国人に向かって人間ドックをいくら訳しても意味は通じません。そもそも仕組みとして存在していないのです。

この仕組みは、高度経済成長時代に、船が一年の航海の疲れを休めつつ、船体についた藤壷やさびを落として新しい航海に出かけられるのと同じ様に、働き盛りの人々が、その体を隅々まで検査するドックの様な仕組みが必要であるという、一種の国策から生まれました。行政サイドから見てみれば国民の生産力を最大化するための一つの方策、ということであったかも知りませんが、動機はともかく、制度としては非常に優れていると思うのです。

この検査が、健康保険に入ってさえいれば3万円から5万円程度で受けられることを、日本人のほとんどが何とも思っていない・・・むしろ「高いな〜」と思っているようなのですが、例えば米国で同様の精密検査を受けようとすると1万ドル以上かかると聞いたら、どのように思われるでしょうか。事実上米国の健康保険制度は破綻しており、我が国でも近い将来米国の様な状況に陥ることが懸念されていますが、ベースとして健康保険関連で国民が享受している行政サービスのレベルが、そもそも米国は桁違いに低いことをまずは知っておくべきではないでしょうか。

日本の政治や行政は、いわゆる「進歩系マスコミ」(苦笑・・・)と、それに踊らされやすい人たちのおかげで実態以上にひどい状態と考えられていますが、様々な社会的な指標、つまり乳児死亡率や、一人当たりの医療費、犯罪率、文盲率、一人当たり生産力といった数値をみてみれば、様々な問題を抱えいたとしても、まずは世界トップレベルのバランスを維持した、たぐいまれに優れた社会であることを認識しておくべきです。

かといって問題がまったくないわけでは、もちろんありません。個別個別に見ていけば、たくさんの課題はあるでしょうが、かといって良い点をすべて無視していい訳ではありません。他国に範を取るとしても、その国の良い点悪い点があって、しかもそれらが表裏一体をなしていることを、我々はゆめゆめ忘れてはならないと思います。

と書いたとたんに中川さんがヘベレケ会見の責任を取って辞任・・・・うーn。
ある意味、政治家がここまでダメなのにちゃんと機能している日本って特殊な国なのかも知れません。

インターネット廃止論

インターネットがあることで、誰か幸せになった人っているのでしょうか?むしろ不幸になった人の方が多いんじゃないでしょうか。

インターネットが出てきた当時、世界的な草の根コミュニケーションが活発化されて紛争や戦争の抑止になる、という説が出てきましたが、そういう意見は社会というものを非常に甘く見ている様に思います。

つながりたい人とだけつながることが許される社会というのは非常に危険だと僕は思っています。それは、多数のカルト教団が併存している社会と同じですから。

社会学者のデュルケムは自殺を4つに類型化した上で、成熟社会においては絶望でも自己犠牲でもない、連帯の喪失による孤独感による自殺=アノミーが増加することを予言しました。

インターネットは、成熟社会において、それがなければ孤独感に苛まれながら放浪するだけだった人に、寄る辺を与えているっていうことなのかも知れません。

Monday, February 16, 2009

自転車




昨年の秋頃に購入した自転車です。

イタリアのデローザという工房製です。デローザは1970年代にツールドフランスを5連覇した伝説のチャンピオン、エディ・メルクスの愛機としても有名でした。

当時のデローザの価格は今の値段で700〜1,000万円程度で、現在で言うポルシェとほぼ同じ価格でした。今、デローザは、まあ大型のハイビジョンテレビと同じくらいで買えるようになったのだから、僕らは円の強い、いい時代に生きているわけですね。

本格的なロードレーサーは初めてだったので、氷の上を進むような無音、無抵抗のスムーズな橋に、最初は「おおお!」と感動しました。

現在のロードレーサーはカーボンが主流になってしまいましたが比強度の関係からカーボンはどうしてもフレームが太くなってしまいます。一方で僕のデローザは伝統的な鉄=クロモリのフレームで、このフレームを愛する人はその細さ、エレガントなたたずまいに、やられてしまうんですよね。乗るのも大好きですが、パイプをふかしつつウイスキーをなめつつ、自転車を眺める時間が大好きです。