Sunday, February 15, 2009

モハメドアリとマイクタイソン

モハメドアリとマイクタイソンは、双方ともに米国のボクシングヘビー級のチャンピオンですが、以前から、この両者が人に与える影響の質には大きな違いがあると、何となく感じていました。

その、質的な差が、最近少しずつわかり始めてきました。

乱暴な言い方ですが、社会のシステムに対して大きな疑問を抱きながら、システム自体を利用したのがアリで、システムそのものの善悪を問うことなく、そのシステムに完全に耽溺して最適化したのがタイソンだと、いう気がしています。

モハメドアリという名は、よく知られていることですが、本名ではありません。もともとはカシアスクレイ、という名で、ローマオリンピックでもその名で金メダルをもらっています。マルコムリトルが、そもそも名字は奴隷時代の名残でついているものであり、従って自分の出自はわからないのだ、という意義を込めて名字をXとし、マルコムXと名乗ったのと同様に、奴隷時代につけられた名前を引きずることを厭って、宗旨替えとともに教祖の名を自分の名前にしたのだと、聞いています。

僕はアリについてはよく知りませんが、決定的なエピソードだと思うのはベトナム戦争の兵役を忌避したことです。この点は、当時トップスターだったエルビスプレスリーが、お国の命ずるままに兵役に服したのとは、大きく異なる点です。もちろん、プロパガンダ的な観点からエルビスも危険な任務には服さず、後方支援的な業務を短期間努めて兵役を終えました。トップのポップスターが、前線でゲリラに殺さて反戦ムードが一気に高まることを国防省や政府が恐れたことは、容易に想像できます。そして、恐らくアリのケースでも、裏側での政府とのさやあてはあったことでしょう。兵役なんて形だけのもので、君には危険な任務は担当させない。適当につとめてくれれば、それでいいんだ、と言い寄る国防省の声があったことは容易に想像できます。それでも、彼は断固として徴兵義務を拒みました。理由は、「ベトナム人を殺せ、と言われて、じゃあ殺します、という理由が自分にはない。自分は何らベトナム人に恨みがない」という、恐ろしくも単純な理由でした。そして、この兵役忌避のために、ヘビー級チャンピオンという資格を剥奪され、以後、キャリアの絶頂期において無期限のボクシング試合停止、という処分を受けます。第二次大戦中の日本でいう「非国民」ということでしょう。

僕の父方の祖父は、帝国陸軍の将官でマニラで戦死しています。先日訪れた福沢諭吉展でも、やはり1940年代の塾生の多くが、神風特攻隊で死んでいること、そしてその多くが、出撃直前に恩師や家族に手紙を認めており、その人生には一片の悔いもないことと、日本のその後、家族のその後を、生きてその運命を肩に背負うことになった人に、くれぐれもよろしく頼む、という旨が書かれていました。

中でもよく覚えているのが、特攻隊の出撃前夜に、経済学部の学生が認めた手紙で、その最後には「明日、一人のリベラリストが、この世から消えることになります。しかし、その本人には一片の迷いも、悔いもないこと。そして、このような終焉を迎えることに100%満足していることを、ここに書き残しておきたいと思います」という言葉が忘れられません。

学生時代、友人が自宅に訪れて夕食をともにすると、必ず面食らって食後に僕に聞いてくることがありました。曰く「お前のうちって、毎晩あんな風に激烈に議論するの?」。

僕は学生時代からアリの考え方に共鳴し、いくら国事とは言え、納得できない戦争に命を捧げることはできない、というスタンスの持ち主でした。一方で両親、特に父は、その父を戦争でなくしたこともあるかと思いますが、政治はそもそも100%の納得よりも国の絶対的な利益を優先するもので、それに納得できるかできないかで、それに協力するかしないか、という考え方自体を否定する、というものでした。とはいいつつも、その父でさえ「100%○○だ、という意見があったら、だいたい間違っていると考えればいい。世の中は0でも1でもないし、右でも左でもない。そんな単純なことを言うやつは頭のできが悪いんだよ。周ちゃんは、きっとそういうのとは仲間になってはいけない」といいながらダンテ、シェークスピア、プラトン、屈原の言葉を引用しながら諭すのが、食後のお茶を飲んでいる時間の定番でした。

正直言って、教養レベルでも頭脳のクロックスピードでもかなわない父と議論すると、常に劣勢になり、最後は論破されるというオチでしたが、いつも遊びにくる友人も、その議論の凄まじさに、辟易している感じでした。

まあそれはともかく、アリとタイソンの違いと考えると、「疑いを持つことの大事さ」ということを感じてしまうのです。

これは、右派、左派という問題ではなく、テーゼに対して、常に斜めに見ること、客観的であることの大事さにつながると思うのです。

アリという人は、決して教養のある人ではなかったと思いますが、個人の思うところに即して自分の行動を決め、それを一貫させたという点において見習うべきものがあると思います。これは、70年代当時失われつつあったアメリカ的な美徳であったのだと思います。対して、タイソンは、恐らくボクシングの技術・・・つまり相手を叩きのめすという機械的な技術に関しては、そおらくアリより上だったのではないかと思いますが、自分がよってたつシステムや社会の仕組みについて疑いを差し挟むということを、まったくしなかった人だったと思います。

ルールはこうこう、従ってこれをうまくやれば、莫大な金が入ってくる。というインプットに従って、自分を仕組みに最適化し、マシーンのように鍛え上げた、という感じです。そしてその先に何があるかは、彼の問いのリストの中にはありません。100億円近いファイトマネーを手にして、その先に何があるのか?

ルールに則って戦って莫大な金を得ることと、ルールそのものの問題を指摘して、そのルールの中で戦いつつルールの是正を試みること。後者は遥かに大変です。

どこが大変かというと、ルールを否定する人は殆どの場合社会的には敗者なんですよね。あ、この場合の敗者というのはもっと広義で、例えば論文を学会に出すだけの大学教授や、お金はあるけど実際に社会を動かすだけの権力や影響力を持っていない音楽家やアーティストも含めています。

数年前に一度、歴史上の革命がどういうカロリーの上昇で発生したかを勉強してみたことがあって、だいたい体制の中枢から革命を指向する人が出てこないと、難しいんじゃないか、という思いに至ったことがあります。フランス革命のロベスピエールや明治維新の勝海舟、ソ連解体時のゴルバチョフは皆、体制側の人間です。

これだけ明白になっているにも関わらず、エスタブリッシュメントの仲間に入らないで社会を変えられると思っている存在というのは、極論すれば唾棄すべきだと思っています。僕は社会はもっとよくできると思っていますが、であればこそ、社会の中枢に近づくことが大事なのではないかと思っています。一方で周りの人が、社会システムそのものに最適化するゲームに身をやつしているので、それはそれで「くだらないな」と思いながら同じゲームを戦って、同じ点数を上げなければいけないという、非常につらい道なのですが、まあそう考えているんですよね。


ナイロンバッグ


以前からバカにしていたナイロンバッグをついに購入しました。

最近、クライアント先に常駐のプロジェクトにアサインされたのですが、電車での移動距離が長く、これまで愛用していたゼロハリバートンでは肉体的な苦痛が耐え難くなり、親友の勧めもあってついに購入に踏み切りました。

用具類一式を入れてみての感想は・・・軽い!これは確かにベラボーな軽さです。
もう他のバッグには戻れないのかも・・・

でも、こうやって食わず嫌いで過ごしていることが他の案件に関しても多いのかも。偏屈なのも考えものですね。

Thursday, February 12, 2009

燃えよ剣

燃えよ剣

一言で言うと新撰組副長だった土方歳三の生涯をつづった本です。

一種、新撰組というベンチャーの創業者の物語という読み方も出来ます。

土方は一種の組織造り、組織運営の天才で読めば読むほど現代に生きていればきっとビジネスマンとして活躍しただろうな、という気がしてきます。

以前に、大好きだった塾の国語の先生に言われたのですが、新撰組というのは世界史的に見ても稀なほどの純度の高い剣客集団で、その規模を考えると実質的には史上最強だっただろうとのこと。

それだけのパフォーマンスを組織として維持するためにどのように人を集め、教育し、規律を持たせるか。ここに単なる歴史小説として楽しめる、という以上の学びがあり、つまり色々とビジネス上のヒントがあります。

ただし、個人的にアスピレーションを感じるかというと・・・・ちょっと違う。この本はもともと親友から読め、と言われたのがきっかけだったのですが、その友人が感じたような憧れ・・・本人は「滅びの美学」と言っていました・・・、僕自身はあまり感じませんでした。

むしろ、イライラしたという感じでしょうか。

この人は小さいと思う。

歴史的な視点と世界地理的な視点の2つが全く欠けていて固陋に武士道にこだわり、侵略を目論む西欧列国に対し、日本国全体の足並みを揃えていこうという国事の足を引っ張って引っ張って引っ張りまくった団体の張本人が新選組で、その親玉が土方です。

加えて、一種の殺人嗜好症のようなところもある。新撰組副長時代の京都から東北、最後の五稜郭まで含め、とにかく斬り、裂き、突いて血煙を浴び続けます。何故それが可能だったかというともちろん本人の剣術、軍略センスもあると思うのだが何より幕府から「守護」のオーソライズを得たことも大きいのでは。

つまり土方という人は局地戦での軍略という点においては戦略の天才なのですが、国家間での争い、という点については全く戦略的視点が無い人のように見えるんですね。これに軍事力だけは突出して備わっているわけだから政治的には極めて扱いの難しい人だっただろうと思います。

話の後半で、幕府に忠誠を誓って江戸城に居座ろうとする新撰組と土方に対して、それを疎ましく思う勝海舟が「甲州の城を落せ。落せたらそのまま甲州を差し上げる」として城から出陣させるクダリがあります。なけなしの軍資金を与えて京都から攻め上がる官軍の防衛となれ、ということなのだが、種明かしをすると無血開城を目論む勝海舟にとっては江戸城で殺人嗜好症でかつ薩長から蛇蝎のように嫌われている新撰組+土方を追い払うことが政治的な工作のためには都合がよかったということなのです。

やはりこういうところを読むと時代を読む目、大きな視点での戦略ということにかけてはとてもじゃないが土方は勝の足元に及ばないな~という気がします。

面白くて考えさせられた、良い本でした。

Wednesday, February 11, 2009

スウェーデンについて

2009年2月11日

福祉国家の闘い 武田龍夫

最近、日本が進むべき方向性の一つとして北欧諸国の社会モデルが参照できるのではないかと思って、いくつかの本をパラパラと読み進めています。まだ、数冊程度しか目を通していないのだけど、現時点での印象は「マスコミを通じて喧伝されている北欧諸国の理想国家的イメージは、かつてのソ連のそれに対して朝日新聞が行ったプロパガンダと同じだな」というもので、ちょっと落ち込んでいます。

そういう状態で、今日、JBIC(国際協力銀行)において排出権取引のインフラ作りをしている友人と一緒に長い昼食を取ったのですが、その際に僕が「でもスウェーデンって90年代に原発は全廃するって決めて、で火力発電に依存せざるを得なくなるけどCO2排出量は増やさない・・・じゃあ経済成長は捨てるのか、というと、これはこれで追及する、という無理難題を掲げて国全体で何とか推進しているんだから、スゴイよね」という話をしたところ、「ああ、それ、昨日ちょうど発表されましたけど、スウェーデンも原発の全廃やめることになったんですよ」とのこと・・・驚愕。実は原発廃止先進国のドイツでも1998年に原発をなるべく早期に全廃する、ということで議会の合意が成立しているのですが、実質的にはこの計画も崩壊していて原発の稼動を高める方向で行政は調整に入っているのだそうです。但し、ドイツでは緑の党が議席を結構取っているので、調整が難航しているらしい。

要するに、CO2の排出をなるべく減らす、という京都議定書が発効になって段階で、火力発電に頼れなくなったということらしいのです。その友人はJBICの前職が東京電力なのですが、曰く「先進国で原発を使わない限り、CO2の排出を減らすのは絶対に不可能」ということでした。僕も「プラントで生産されるエネルギーのうち、末端までデリバリーされるエネルギー総量の歩留まりを改善する、ということは考えられないの?」という質問をしてみたのですが、この点についても「既に日本ではこの歩留まりは96%程度であって、大きな改善インパクトを期待できない」とのこと。また、他の自然エネルギーに関しては、「日本全土に太陽光パネルを敷き詰めても、東京都で必要とされるエネルギーすらまかなえない状況」ということでした。なんだか難しいらしいのです。

音楽家の坂本龍一は「原発は廃止せよ」と言う一方で「CO2は減らせ」と騒いでいますが、その友人に言わせると「専門家は殆ど聞いてないです。ハァ?っていう感じですね」とのこと。やっぱりそうか。

ということで、若干ヨーロッパモデル、北欧モデルに対する幻想が僕自身の中で崩れていくここ数週間です。

■女性の社会進出⇔家庭崩壊⇔高額の税金は表裏一体の関係
- ルンド大学の教授:ポールソン女史は言う
- 昔の大家族は老人や病人、職のない家族の面倒を見てきた
- スウェーデン女性たちが家の外で働くようになり、生産に寄与するようになったが、その家の中の仕事は消えない・・・それは誰か他の人々、つまり公的機関が引き受けることになった
- こうして結果的には公平で平等な社会を作り上げられた
- しかし、実際に女性たちを待っていた労働市場は賃金給与も低く狭い市場であり、そのために社会福祉国家は伝統的な家庭支出をかたがわりしているが、それは公的支出の7割にも達し、スウェーデンの総所得の半分になっている
- 率直に言って、家庭を崩壊させたコストは高くついたといわざるを得ない

■経済成長なくして福祉はない
- なぜスウェーデン型福祉が行き詰ったか
- 理由としては、人口構造の変化、福祉公的部門の肥大化、福祉官僚主義の弊害の表面化、福祉そのものが生み出す悪徳や利権、といった点が挙げられる
- 福祉は大変なコストがかかり、自律的に拡大運動を続けるため、経済成長がないと福祉を維持できなくなる
- 80年代に入ってすぐ、スウェーデンの公的部門の支出はGDPの60%を占め(50年代は30%程度)、170万人の雇用を集めるに至った(スウェーデンの労働人口は410万人!!!)

■国民全体が豊かな中産階級
- 殆どの国民が別荘、モーターボートを保有
- 年間の夏休みは一ヶ月が標準的
- 日本よりも広い国土に890万人の人口でかつ高品位な鉱物資源が無尽蔵にあり、水力も豊富で、国土全体は森林に覆われている・・・加えて民度の高い優秀な国民・・・・基礎体力としての国力が日本とは異なる

■ 一方でネオファシズム的な側面も存在
- サルトルは、スウェーデンをネオファシズムの国として、非常に危険視していた
- 事実、あまり知られていないが1934年から1976年までの間に、強制断種、不妊手術が、6万人以上のジプシーやラップ(スカンジナビア半島北部の少数民族)民族、身体障害者等を対象に行われていた
- 但し、この問題でスウェーデンを責めるのは簡単だが、当時はノルウェーでもデンマークでもスイスでも・・・・つまり広く一般に「当然」と考えられていたことを我々は忘れてはならない

■中立とは武力で勝ち取るものである
- スウェーデンは、1813年のナポレオン戦争以来、現在まで180年以上もの中立を守り抜いた世界でも類例のない国である
- クリミア戦争でもスレスウィッヒ戦争でも第一次大戦でも第二次大戦でも、その後の冷戦でも一貫して中立を維持してきた
- 一方で、スウェーデンでも、またスイスもそうだが、国民皆兵の徴兵制度があり、また国力に不相応なほどの重武装国防力を有している
- (そういえば、SAABは日本では自動車メーカーとして有名だけど、もともとは航空機メーカーで、スウェーデン空軍の戦闘機はSAAB製であることを思い出したりする。国が膨大な軍事費を使うことで、購入国が一国でも戦闘機を作るだけのスケールを維持できるということなのかも知れない)

■ノーベル賞は外交の武器でもアリ、一種の輸出産業である
- 選考には従来から非常に問題があると言われている
- 特にヒドイのが文学賞で、イプセン、ゾラ、トルストイ、リルケ、カフカ、ジョイス、グリーン、プルースト、ストリンドベルイ、志賀直哉、谷崎潤一郎、三島由紀夫、井上靖らが受賞していない一方で、受賞者を並べてみると???の印象をぬぐえない
- 平和賞は完全に政治のツールになっており、もっとひどい・・・・キッシンジャーもサハロフもアラファトも佐藤栄作も選考委員会で対立が起こり、アラファトでは激論の末にノーベル賞選考委員の辞任という事態まで発生した
- 人道的なもの、例えばシュバイツァーやマザーテレサ、アムネスティ・インターナショナルや国境無き医師団の際にはあまり異論が無いが、では例えばガンジーはなぜ受賞しなかったのか、不思議に思わないだろうか?答えは単純でイギリス政府に遠慮したから

■ 将来に不安のない福祉国家だからと言って幸福ではない
- 例えばスウェーデンの自殺率は10万人当り20人程度で、欧州の国としては平均的(旧東欧諸国はおしなべて高く、例えばルーマニアは10万人当り70人程度)
- 犯罪も多い・・・しかも一人当たりGDPが高まるにつれて犯罪率は高まっている!!
- 例えば刑事犯罪のここ数年の平均は日本が大体170万件であるのに対して、スウェーデンは100万件だが、スウェーデンの人口は日本の6%程度でしかない
- 強姦事件は日本の20倍以上、強盗は100倍以上で実にアブナイ国

■ スウェーデンの女性は怒っており、それが男性のタイヘンなストレスになっている
- スウェーデン女性は美しい・・・女優みたいなのがそこら中にゴロゴロいる
- グレタ・ガルボやイングリッド・バーグマンもスウェーデン女性で、要するに八頭身の西洋人形みたいのがそこら中にいる、と考えればいい
- 米国の心理学会では、一般的にスウェーデンが固有的に示す病理的な側面の原因は女性の強さにある、と言われている・・・・心理学用語の「男性的抗議」が強く出ているのである
- 独立願望が強く、依存を嫌う。情緒面で不安定で荒廃し、しかも理想とする男性を自分で育てるという考え方を持たない。利己的で冷淡で永遠に欲求不満(為念:すごい書きぶりだが僕の意見ではありません)
- だから、日本人女性と結婚したスウェーデン男性たちの特集が雑誌で組まれ「彼女たちはここまで夫に尽くしてくれる、耳かきもしてくれる」というオノロケ記事が出た際に、女性団体から雑誌社に抗議が殺到した・・・曰く「日本人女性は世界の女性解放の敵だ、我々は奴隷が主人に感じる愛情を否定する!」
- つまり、ストリンドベルイを生んだ国ということである

■結果として社会進出は、「一応している」と言うべきで、実際にはまやかしの面もある
- 数字で見る限り、スウェーデン女性の社会進出は世界一である
- 国会議員の約4割が女性(EU平均は2割程度)
- 1999年秋に組閣したペアソン内閣は女性閣僚の方が多かった
- しかし、こういった数字の下で、本当に女性が社会的に慈しまれているかどうか、という点では疑問である
- 例えば家庭の中における女性の位置づけは、日本より遥かに低い上、夫に比較して所得も低いために、つねに劣等感に苛まれている
- また労働率が女性の社会進出率が80%と言われて喧伝されるが、約半分はパートである
- 政治家への進出もクオタ制による割り当て選挙のおかげであり、要するに実力で勝ち取ったものではない、という後ろめたさが常に付きまとっている・・・・男性が実権を握っている政府の中で、うるさい女性を黙らせるために制度を少しイジって満足させる、という戦略が見えてくる
- 結果的に、女性の社会進出は大きく偏向しており、職種は特定部門の20種類程度に集中している一方で、男性の職種は160種程度に広く分散している
- また経済・金融・産業界の女性トップは一人もいない
- 結論から言えば、スウェーデン女性の社会進出は、まやかしの表面的なものでしかない

Thursday, February 5, 2009

マーレイの言葉に思うこと

2009年2月6日

あのアイルトン・セナも在籍していたF1チーム:マクラーレンのテクニカル・ディレクターとして一時代を築いたデザイナーでゴードン・マーレイという人がいます。この人、F1マシンの底から強制的に空気を吸い出して負圧を生み出し、地面に車体をへばりつけるコンセプト=「ファンカー」を作ったり、極端に空力を優先してドライバーを仰向けに寝そべらせる様なマシンをデザインしたりとアノテコノテの素っ頓狂なアイデアを実行し、しかもそういったアイデアで開発された車が実際に早かった、という素晴らしいデザイナーなのですが、その彼が先日、あるインタビューで「20年前はアイデアがひらめいてそれを実験するとラップタイムが5秒とかポンッと上がったものだ。今はナンですか?物理的に収斂してしまって風洞実験を18時間行って0.5秒の改善?そんなことに人生を費やすのなら私は家でロックを聴いて寝ていますよ」と応えていました(マーレイは故ジョージ・ハリスンとも親交が深かった生粋のロックファンで自宅には数千枚のレコードを隠し持っている由)。

この言葉に、ここ2年ほどずっと引っ掛かっています。

18時間風洞実験をして0.5秒しかラップタイムが改善しない。このバカバカしい取り組みに関係者はそれこそ粉骨砕身で打ち込んでいるわけですが、今、こういったバカバカしさは先進国の経済活動の殆どを覆っているように思います。ハーバード大学のクリステンセンが指摘した「イノベーションのジレンマ」もそうですが、要するに、受益者にとってどうでもいいくらいのマージナルな進化しか期待できないことに、人類の英知や才能が膨大に注ぎ込まれている、ということです。

しかし、一方で、市場原理はそのマージナルな差を精密にスキャンして、敗者には市場からの退場を迫ります。この点の残酷さは0.01秒でも遅ければ敗者となるF1と変わりません。従って、今現在のシステムに我々の社会を乗せている限りは、このバカバカしさから逃れることは出来ないように思えるのです。

そして、その集団としてのバカバカしい取り組みの結果、20世紀という時代が千年後に何を残せたのだろうか、ということを考えると、このようなバカバカしさに、21世紀も人類が邁進する、ということは、これは非常に愚鈍ではないのか、という気がしてしょうがないのです。どうするか?マーレイの様にロックを聴いて寝る、というのもありなのかも知れません。

仕事中なので、ちょっと中断してまた考えます。

Wednesday, February 4, 2009

この世で一番ハラたつこと

最近よく出会うのだが、たまにトイレで手を洗おうとしてセンサーに手をかざしても、なかなか反応しない蛇口がある。

これほどハラの立つものはない。

先日などは、さんざっぱら手をブラブラやって、やっとこさ水が出た後、今度は洗った手を乾かそうと思って、やはりセンサー式の ドライヤーに手をかざしたら、これも反応しない!

後ろに人もいるため、狼狽しつつも、手を濡らしたまま出るのもヤなので、なかなか反応しない機械に手を突っ込んで、後ろの人に卑屈な笑みで「へへへ~すいません」と言いながら、手をブラブラ上下させる、という行動は個人の尊厳を崩壊させるギリギリの線上にある。なぜ僕がこんなクサレドライヤーのために、こんな屈辱を味わあねばならないのか。

最近、こういったお節介系のサービスによる怒り、というのが多くなっている気がする。

例えばエレベーター。「6階です」とか「ドアが閉まります」とかしゃべるヤツがある。静かさは贅沢なのに、私の静かさは貴方の全く無意味なアナウンスで台無しにされている、と感じてしまうのだ。カルシウムが足りないのだろうか?

確かに混んでいるエレベーターだと階数表示が見えにくいこともあるだろうが、本当にこんな機能、意味あるのか?

実際には殆ど効用がないのに、どっかのメーカーがつけ始めて、付加価値をつけることに深く考えられ
ない競合他社が、それっと付和雷同した結果、どこも同じ「おせっかい音声つき」のハードが蔓延することになってしまったのだろう。

ウルサイ、ということで言うと目にウルサイ広告も実に腹立たしい。最近のタクシーは、後席に液晶モニターがついていて、バカ面をしたタレントがチャカポコ画面で動いており、これが実に目にウルサイ。こっちは外の景色を楽しもうと思っても、目の端でチカチカ動くので実に腹立たしい。美しいものを見るのは個人の権利なのに、その権利を暴力的に奪われているという気がしてしまう。

音声も同じである。ご乗車有難う御座います。またのご利用をお待ちしております、なんて機械に言わせることの意味をもう一度サービス提供者はよく考えてみた方がいい。顧客にとってどんな付加価値があるのか?運転手さんから直接言われるのなら、まだ気持ちいいが、文字通り魂の入っていない言葉でそんなこと言われても、耳にわずらわしいだけだ。

こんなサービスとかガジェットの開発に、携っている人がいることを考えると気の毒でならない。

Wednesday, January 28, 2009

弓と禅

弓と禅を読了。

明治政府の依頼で東北大学の哲学科教授に招聘されたドイツはカント派の哲学者、オイゲン・ヘリゲルが、日本において修行した弓について、その修行の模様と蘊奥としての禅の思想について述べた本。

日本という国が、その時代から一巡して、今後ドコに行くのかよくわからない、という時期に読むことで意義が増す本だと思った。

ヘリゲルは弓聖といわれた阿波研三に教えを乞うた。そしてその教えは論理哲学を標榜するヘリゲルにとっては驚天動地のパラダイムであった。曰く、

:的を狙ってはいけない
:矢を放してはいけない
:矢を放すのではなく、笹に積もった雪が自然に落ちるように、矢に行かせなさい
:力を入れてもいけない
:貴方が射るのではなく、「それ」が射る